法を支配するものと法が支配するもの

 特権は「関係」に起源する。「関係」は中国語ピンイン「Guanxi」のまま、いまや堂々たる英単語になっているだけに、その存在感は実に大きい。

 日本でも、「関係」が存在しないわけではない。「天下り」や「談合」などなど言ったらきりがない。ただ、陰で様々な取引が行われても、まさか人前で「おれは特権をもってるぞ」と連呼する輩はさぞかし少なかろう。

 それに対して、中国では、「特権」が一種のステータスとして、ブランド物同様に扱われ、人に見せびらかして自分のパワーや存在価値を誇示する。以前、わが社に面接で来た弁護士で「私はどこそこの裁判官と仲良しで、裁判所の人脈をもっている」と堂々と自慢する人もいた。信じられない光景だが・・・。

 法を守るにも、法を破るにも、コストがかかる。「遵法コスト」が「違法コスト」よりも高くなっているのが、モラルハザード(倫理の崩壊)の根源である。中国には悪い人もいれば、良い人もたくさんいる。しかし、「善」よりも「悪」が利益を得やすい、得する社会構造になっていれば、「善」が委縮し、「悪」が堂々と表舞台に躍り出る。

 「特権」が法や社会倫理を凌駕し、利益獲得の近道になっているとき、倫理どころか、法さえ尊さを失い、無用の長物になってしまう。いや、法それ自体が支配され、その支配者に都合の良いようにさらに法が他者を支配する。それほど怖いものはない。

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