黒一点要望、日系航空会社の美しい女性CAたち

 男性友人某氏のフェイスブック記事を拝借する。

 「仕事でよく飛行機を使います。大体日本のエアライン主体ですが、CAの皆さんスリムで美しい方ばかりです。だけど、昨今多い酔っ払って暴行起こすような輩が現れた場合、彼女達だけで制圧できるのか心配です。CAさんから助太刀を求められたら喜んで暴漢を制圧しますけど、エアラインの社内規定では乗客に助けを求めるなどという決まりはないはず。男性CAを増やすなどの対応をされるべきではと思います」(以上引用)

 私は居住地の関係もあって、日系航空会社を利用する機会が少ないが、たまに日系を使うと、本当に美しい女性客室乗務員たちに圧倒され、居心地のよろしいフライトをエンジョイさせてもらっている。

 最近、欧米系を中心に多くの航空会社は積極的に男性客室乗務員を投入、増員しているが、昔の写真を見ると、やはり綺麗な若い女性客室乗務員がほとんどだった。

 航空史を調べると、実は最初は、男性乗務員のみだったが、1940年代後半、科学技術の進歩により空の旅は大幅に快適になったため、女性乗務員の投入をはじめたという。そして、60~70年代に入ると、ビジネスマンが航空機のメジャー乗客だったことを踏まえ、女性客室乗務員の「女性としての魅力」を全面的にアピールするようになったと、このように記載されている。

 時代が変わった。昨今の飛行機は、ビジネスマンから出稼ぎワーカーまで幅広くいろんな、雑多な人が乗っている。もちろん品位のない乗客も乗っているし、酔っ払って暴力を振るったりする人もたまに乗っている。さらにテロリストの全盛期でもあることも忘れるべきではない。

 このような時代の変遷に、日系航空会社はどのように対応を考えているか、それは定かではないが、女性客室乗務員の美しい姿を眺めながらも、リスク管理という課題を考えずにいられない。たとえば、飛行機の座席数に応じて必ず一定人数の男性客室乗務員を配置するとか、いろんな施策が考えられる。

 余談だが、中国の航空機は、だいたい私服警官か保安警備員が乗っているようだ。エコノミー席の1列目通路側が彼たちの常用席である。手ぶらで荷物をまったくもっていない上、短距離の場合機内食が通常出されないのが特徴。人によっては無表情で冷徹な目つきで、美しい女性客室乗務員たちと鮮烈なコントラストを成したところで、いささか不調和感を覚えながらも、妙な安心感も芽生えたりする。

蓮舫氏二重国籍事件の結末、有権者の素質が問われる

 蓮舫氏の二重国籍事件。「国籍喪失許可証」は偽造ではないかといわれるなか、台湾のニュースでは、台湾政府(内政部)が公式に書類が真正なものであることを認めたと報じられた。

 数日前からフェイスブックで言っていたが、蓮舫潰しのための蓮舫叩きはみっともない。民進党を馬鹿にしながら、民進党と同じ馬鹿なことをしているのではないか。見苦しい限りだ。

 有印公文書偽造、その証拠を自ら堂々と世界に向けて電波に乗せる馬鹿な奴はいるか、常識的に考えてもあり得ないことだろう。証明写真の規格外とか探偵ごっこにもほどがある。

 ここまで来たら、蓮舫事件の一般論化、国籍法制度の課題を理性的に提示し、立法府挙げて取り組むのが賢明であって、国家のための行動ではないだろうか。

 蓮舫氏はどうも不誠実で、政治家という自覚が欠如するところ、ぜい弱な法基盤と相まって今回の事件の結果になったと、そろそろ結論付けしたらどうなのだろうか。

 さらに酷いことに、某論客いわく「蓮舫氏は工作員でないと自分で証明すべき」。これは、安倍首相夫人に「100万円を渡していないことを証明しろ」と同じ論理に陥ってしまう。理性、正当な論理性を失ってはいけない。

 正しい目的のためにも、正しい手段が必要。謀略があってもいいが、非論理的なアプローチは禁物。正義のために間違った手段を使ったら、今度、不正義がその間違った手段を駆使して正義への攻撃を正当化する。自己矛盾の罠に陥ってはならない。

 付言しておくが、私は蓮舫氏も民進党も嫌いだ。嫌いだからといって、理性を失ってはいけない。卑怯な相手の土俵に軸足を移してはいけない。低俗な人間と同じ低俗なことをしてはいけない。保守陣営の品格を下げてはいけないのだ。

 この事件の論点はほぼ出尽くした。次は、有権者の蓮舫氏に対する判断・判決を待つのみだ。次の選挙で、それでも蓮舫氏が当選するなら、それは有権者の意思決定だ。問題があるとすれば、票を入れる有権者の素質の問題になる。

宗教もたずに信仰をもつ、自身の神を見つけよう

 私は信仰をもつが、宗教をもたない。私には神が存在するが、それは宗教が規定する神ではなく、私自身の神だ。

 宗教の中心となる聖典を精読するや、納得する箇所と納得しない箇所が出てくる。納得しないものを唱え続けても納得するようにはならない。納得しないのだから、信じるというのが宗教の原点だが、決して信仰の原点ではない。

 思うには、真の信仰、最上級の信仰、その出自は既製された宗教ではなく、一人ひとりの人間の中に根ざした不変で神聖な魂たる「神」なのだ。故に、私は自分自身のなかに神との出逢いを探し求め、既製の聖典を唱える余裕などはない。

 哲学家ニーチェには、多くの「信者」がいる。しかし、彼は決して宗教の開祖になろうとしなかった。いや、それが真正面から彼の哲学に反するからだ。ニーチェがいう――。

 「私を失いなさい。そして君たち自身を見つけなさい。君たちみんなが私を否定したとき、私はまた君たちのところへ戻ってくるだろう」

 自分を否定する勇気は、既製(既存?)の神にはもっていない。いや、正確に言うと産業化した宗教は、否定を最初から否定していたのであった。ルターの宗教改革は、否定を持って新たな否定の否定を生み出してはいなかったのか。

 懐疑に起源する否定がすべての原点だ。神を否定したところで、真の神に出逢う。真の神は教会や寺院に存しない。それは一人ひとりの人間のなかに生きているのだ。

生産性に無慈悲なメス、日系企業に管理会計不可欠

 某在中日系企業の中国人経営幹部向けの財務研修を受注した。

 私は基本的に人事労務、経営戦略畑だが、「管理会計」だけは多くかかわっている。BSやPL、キャッシュフローなど財務諸表をはじめとする財務会計は、今時ネットを検索すれば、それでもかという内容が載っている。それなりに独学できるだろうから、わざわざ研修費を出して講師を招く必要もないだろう。

 経営幹部にとって、財務会計よりも管理会計のほうがはるかに重要だ。いわゆる経営者目線をもつために欠けてはならない基礎である。経営者としては、コスト、コスト、コスト、とにかくコスト意識を持たないとダメなのだ。目に見えるコスト、目に見えないコスト、1つ1つ露出させて(可視化)、そして1つ1つコストの潰し方を考え出し、利益を少しでも多く積み上げていくのだ。

 私の研修は、まず私の研修を受けるためにかかっているコストの計算から切り出す。受講者全員が受講中に職場離脱したところの機会損失もしっかり折り込んで計算してもらう。この研修を受けてどのくらいの利益を出せるか、これもしっかり計算してもらう。元を取れない無駄な研修は受けない方がいい。顧客企業の貴重な金を無駄にするような研修を、私はやらない。

 私がコンサルを担当している日系企業では、財務部マネージャーの考課基準は、こうなのだ――。財務会計が正確にできたところで60点ぎりぎりの合格点、そんなのでは給料は上がらない。そのうえ、管理会計の出来具合で点数を少しずつ積み上げていき、会社のために利益最大化できる経営戦略に中核的な寄与ができると、だいぶ評価されるようになる。

 財務諸表の処理はいずれ人工知能に取って代われ、大きな付加価値は出せない。管理会計でも一部人工知能にもっていかれるかもしれないから、やはり特化していく必要がある。

 ある業務にかかる最小限の工数とはどのくらいか。時給100の従業員でできる業務を、120の従業員がやっていたら無駄だ。生産性の極限に挑む。特にホワイトカラーの生産性に無慈悲にメスを入れる。すべてのコストセンターの生産性により無慈悲にメスを入れる。1人も逃がさない。

 ポストは属人的ではない。ポストにより高い生産性を出せる人が適任者だ。それは性別や年次、等級に関係ない。人事制度と連結してやるわけだから、私の本領を発揮する。賃金も従来の固定費から徐々に構造改革を施し、賃金の一部が変動費に変わっていく。それが管理会計なのだ。

 ただそういうドラスティックなやり方は、すべての日系企業が馴染めるものではない。それは分かっている。納得してくれる少数の企業からやっていけばよい。今後数年、日本企業は生産性という鬼門から逃げることができない。故に管理会計を好む経営者にはとにかく、私は親近感をもつ。

2つの思考システム、愚民教育はなぜ成功するか?

 人間には、2つの思考システムがある。

 1つは、直観的思考システム。既往の経験や一般論、感情(共感、または反感)、そしていわゆる常識など事前に備蓄された素材が自動的に、ほぼ瞬時に機能するものである。「情報呼び出しシステム」と、私は別名を付けている。

 もう1つは、分析的思考システム。それは上記に関係なく、白紙状態(ゼロベース)において、理性的に仮説を立て、論理的推論を行うものである。これは、瞬時ではなく、情報の処理に時間がかかり、「情報処理システム」である。

 後者が、前者を検証する。時には前者を(一部または全部)否定し、修正する役割を果たしている。前者は先天的に身に付くものだが、後者はほとんど後天的に、反復の訓練によってはじめて身に付く可能性が出てくる。

 ごく少数の統治者(為政者)が多数の被治者(国民)を治めるために、被治者が分析的思考システムをもつよりも、直観的思考システムをもったほうが断然都合がよい。

 要するに、「なぜ、統治者がわれわれのうえに立つのか」という分析的思考よりも、「統治者は、うえに立つものだ」という直観的思考が、何よりも重要だ。

 たった、たったその1つの目的のために、統治者は、被治者の分析的思考システムの造成を妨害すべく、直観的思考システムの教育を広げるのである。皮肉にも、直観的思考システムの装着が楽でときには甘美なものであるのに対して、分析的思考システムの造成は苦痛に満ちたものである。それは統治者にとって実に好都合である。

 結果は周知の通りだ。いわゆる愚民教育の成功は、このような原理に基づいている。

中国ゼネコンの施工、マレーシアの高級不動産物件

<前回>

 マレーシア不動産投資の話の続き。コンドミニアムを買うなら、せいぜいどこの誰が建てたか、不動産業者が教えてくれるのだろうか。いまのマレーシアのコンドミニアムの多くは、「Made by China」だ。

 クアラルンプールの中心部。高所に登ってみると、こんな風景が広がる。中国ゼネコンが施工しているビルがあちこち林立しているのだ。なかに高級物件も多数含まれている(ブキットビンタンのPavilion Suitesや、KLCCのFour Seasonsなども)。

 中国企業の施工といえば、凄まじい「コストダウン」を想起せずにいられない。だからこそゼネコンの収益性が高いわけだ。固定概念で差別するつもりはないが、個人的には、中国系ゼネコン施工の高級物件は「No, Thank you」で敬遠したい。

 マレーシアには中国系企業がいま殺到している。これはナジブ政権の親中政策とは無関係では決してない。2015年11月に、クアラルンプールで開かれた東アジアサミットの際、安倍首相は、米比などと組んで南シナ海の問題で中国に包囲網を張ろうとしたところ、議長国マレーシアのナジブ首相は何と、ほとんどボイコット状態だった。

 ナジブ氏は当時、政府系投資会社ワン・マレーシア・デベロップメント(1MDB)をめぐる一連の疑惑と巨額の債務によって、巨大な政治的圧力がかかって、退陣の瀬戸際だった。そこで、ナジブ氏を助けたのは中国の習近平政権だった。マレーシアに大量のチャイナ・マネーが流入したことで、ナジブ政権は死の危機から逃れたのだった。

 中国の恩に報いるべく、ナジブ氏が政権の座にとどまる限り親中路線を変更することはあるまい。そういう意味で中国企業のマレーシア市場への食い込みは、もはや止めることができない。不動産投資の話から少々脱線したが・・・。

<終わり>

儲かりますかマレーシアの不動産投資、夜景観賞分析法

 よく、友人から「クアラルンプールでの不動産投資」について意見を求められるが、私は人に「イエス」か「ノー」を答えるのが好きではないので、なるべくその人が自ら結論を導き出すようにアプローチを仕掛けるのだ――。

 インカムゲイン(家賃収入)についてはまず、コンドミニアムの入居率を調べること。入居率をどうやって調べるかというと、1週間毎日同じ場所で夜景観賞すれば、コンドミニアムの点灯率で概ね見当がつく。写真は、私が少し前に撮影したクアラルンプール中心部の夜景。

 ちなみに観測時間は夜20時~22時の間がよろしかろう。大体住民は帰宅しているし、早寝の人でもまだ起きている時間帯である。やはり、クアラルンプール中心部(ツインタワー付近)も入居率はそれほど高くないようだ。ならば、投資後の空室リスクと低家賃を覚悟しなければならない。

 現にクアラルンプールの家賃は全般的に安い。一部目玉が飛び出るほど安い物件があることも知っておくべきだ。分譲相場がどんどん上がってシンガポールや香港に追い付こうとしているが、賃貸は比較にならないほど安い。分譲相場と賃貸相場のかい離が何を意味するか、冷静に考えるべきであろう。

 さらに、マクロ的に考えてみよう。マレーシアの国土は、ベトナムとほぼ同じサイズだ。マレーシアの人口は3千万、しかしベトナムはその3倍以上で1億に迫っている。経済基盤のレベルと成長のスピードを見ても、まあ、ある程度の結論が見えてくるだろう。

 マレーシアにはまったくチャンスがないわけではない。有望な物件もたくさんあるのだが、いずれも100万リンギットという外国人最低購入価格を下回っているため、外国人は買えないのだ。あとは、私が強く興味を持っているのは農地。これも、外国人ではダメ。

 マレーシアは東南アジアで珍しく、外国人が土地を合法的に所有できる国である。だが、それで儲けられると短絡的に考えたら焼けどする。そういう話は、不動産屋さんがなかなか教えてくれないのだ。

<次回>

<ホーチミン>山岳郷土料理、「マウンテン・リトリート」

 バックデートでベトナムの食の話。4月ホーチミン出張のとき、「マウンテン・リトリート」(Mountain Retreat)というベトナム料理店で食事をした。

 ベトナム料理といっても、南北細長い国土で実に多様性に富んでいる。中でも山岳民族系の郷土料理が素朴で特に、私は大好きなのだ。素朴というのは、調理法が極めて簡単で、余計な飾りが施されていないことだ。

 たとえば卵焼きは本当に単純な卵焼き、単にひたすら卵の味と香りしかしない。このような単純な料理では、なかなかお金が取れない。取れなくても、ちゃんとメニューの中に入れてくれるのが嬉しい。心が癒される味だ。

 素朴な山の料理には、少々強い酒がマッチする。ベトナムのウォッカもなかなかいける。ただ飲み過ぎると腰が抜けるので、要注意。お勧めの1店である。

 場所が分かりにくいのと、長い階段が難点。まあ、克服できない大問題ではないが・・・。

世間一般に人並み、幸福バロメーターが不幸の原因

 人間は、みんな他人と比べたがる。ただ、比べ方が違う。

 マレーシアも中国もそうだが、世界の常識では通常、横一線を突破して上へ行こうという前提で比べるのだが、日本人の場合、下に落ちないために横と比べるのだ。

 高度成長期の場合、全員、横一線が揃って上へ移動するので、それで大きな問題はない。ところが、停滞期に入ると、横一線が崩れる。そこでたとえ相対的下位に落ちただけでも、妬みが生じる。

 「世間一般」や「人並み」が日本人の幸福バロメーターになっているからだ。世界では、そもそも、「横」という線は存在しない。存在するのは、一人ひとりの所在位置である「点」だけだ。

 これから、横一線という常識(非常識)をもつ日本人には、地獄が待っているかもしれない。
 
 妬みは、幸福の最大妨害要因だ。では、妬みを治す薬は何かというと、幸福なのだ。幸福感がないから、妬みが増える。妬みが増えるから、幸福になれない。

人生には総括要らぬ、私の墓碑銘

 夢を持たなければ、悪夢も見ない。
 希望を持たなければ、絶望も訪れない。
 天国の存在を信じなければ、地獄の存在も信じない。
 失敗10回やれば、1回くらいは成功する。
 人生には総括が要らない。何回かの中間まとめで十分。

 上記は、私の墓誌銘にしてほしかったが、恐らく墓を持たないだろうから、死後の適宜処分を関係者に伝えておく。

Satoshi Tachibana Official Blog