あなたは幸せですか、「幸せな老後」という終着駅あるの?

 人間は、いつも忙しい。なぜ、忙しいのか。幸せになるため、人間は一生懸命に頑張るのです。

 2005年の夏休み、私は、ロンドン郊外にあるコッツウォールズ牧草地帯の小さな宿に泊まりました。目的は読書でした。香港空港のキヨスクで買い込んだダライ・ラマの著書を読みふけると、いつの間にか、涙が溢れ出ました。

 「人間はみんな苦痛から逃れ、幸せになりたいと願って行動しています。その欲望はごく自然なものでもあり、そして、みんな幸せになる権利があるのです。欲求を満たすことによって幸福になれますが、ただ単にその場の満足感を満たすだけであれば、その欲求は際限なく膨らんでいきます。現代社会はこの種の満足を満たすための仕組みが組み込まれた社会構造になっています。そうすると欲求は更に膨らみ、達成できない人間は苦痛を増し、社会はストレスや憎悪に満ちていきます」(立花による意訳)

 私はダライ・ラマを政治的にとらえることはまったくありません。氏の幸福観と人間性に共鳴と感動を覚えたのです。

 苦しい受験勉強。ようやく大学へ入学し、数年間のキャンパス生活に青春の喜びを知った矢先に就職。先輩にいじめられながらもやっと一人前になれると思ったら、出世競争に社内営業、心にもないことを平気で言えるようになる。

 人間関係で悩み、酒に酔い、夜空に向かって「ばかやろー」と叫ぶ。そして結婚。子供が生まれれば、小さな幸福に包まれるのもつかの間、悪がきのいたずらは手に負えない。それでも我慢にまた我慢。切り詰めた金をどーんと学費につぎ込んでは、出世するわが子のばら色の将来図を描く。家のローンはあと何年、指を折って数えているうちに、髪が白くなる。もうあと一踏ん張りだ。せっせとお金をため込んでは老後への準備に余念がない…そして老後。

 人間は、常に常に幸せを後回しにする動物なのでしょうか。将来の快楽のために、常に目の前の生活を犠牲にし、自ら苦痛を受け入れることを選んでいます。ある日突然苦痛から解放され、幸福になることを信じています。幸福という最終目的のために、苦痛という手段を人間が自ら選んでいるのです。

 振り返ってみると、ビジネスの現場では、意外にも逆のパターンが多いのです。日々の業務をせっせとこなしているうちに、いったい何のためにこんなことを毎日やっているのだろうと、ふっと思ったことはありませんか。「これは私の仕事ですから」と片付けたらそこまでですが、もう少し考えてみたら、何かが見えてくるかもしれません。

 「周りはみんな中国に出て行ったから、うちも」、「いまこそ中国に行かないと乗り遅れます」というコンサルティング案件をいくつも受けているうちに、私は不思議に思いました。

 「あなたの会社は日本に残った方が良いですよ」、「御社の状況を見ると、ベトナムがベターです」、「社長さん、こんな商売を中国でやったら金をどぶに捨てるも同然ですよ。だったら、アフリカの子供に寄付されたらどうでしょうか」――こんな変な助言をしてしまうと、かなり白い目で見られますが、私は本気で言っているつもりです。

 日本人は周りのムードに流されやすい。こうしているうちに、いったいなぜこうしなければならないのかと、自問自答する余裕がなくなり、方法論に一辺倒してしまいます。目的が見えないまま手段に突っ込むと、ビジネスはうまく行きません。もう少し「人生の哲学」で考えていただきたい。

 例えば、目標は「楽しい老後」。そのために、あれもこれも我慢して忍耐する。この場合、我慢と忍耐は手段ということになります。そこで、もう一度冷静に見つめると、「13億人の市場」というのがいかに虚しいものかが分かるはずです。では、どうすればよいのか。1億人の市場はどうか、無理なら1000万人、100万人の市場でも、日本国内のスケールで考えると大きいです。あるいは、中国でまったく売れないものでも、ウランバートルでは一瞬にして完売するかもしれません。目的をはっきりさせようと言いたいのです。

 人生はどうでしょうか。老後の幸せという目標を抱え、眼前の苦しみに耐え続けて良いかどうかは、各人の価値観です。ある日、老いが訪れます。それと一緒に幸せも訪れてくれますか。世界は美しい。道端に咲く一輪の可憐な小花をやさしく撫でてやってみてください。生きる喜びと感動がきっと込みあげ、胸がいっぱいになります。健康で生きる一分一秒ほど大切なものが、この世にほかにありますか。

 幸福は、終着駅ではありません。幸福は、走る列車の車窓風景です。私はこう思います。