忠誠という秩序――ハチ、そしてハナ、ゴン太へ

<前回>

 ハチを見送ってから、私は何度も考えている。ハチ、そしてハナ、ゴン太、彼らはなぜ、あそこまで一貫していられたのか、と。

 人はそれを愛情と呼ぶ。だが、彼らにとっては違ったのではないか。守るという行為は、情緒的な感傷ではなく秩序だった。主人のそばにいること、目で追うこと、異変に反応すること。それは選択ではなく、彼らの世界の法だった。彼らは法と理の世界に生きていた。だから揺れなかった。

ハチ、2019年9月1日撮影

 私は仕事柄、長く情を警戒してきた。経営の現場で「切りたくない」「守ってあげたい」という言葉が先に立つとき、それは往々にして責任からの逃避である。本当に社員を思うなら、会社を離れても生きていける力を身につけさせることが本務である。依存させ、ぬるま湯に浸し、生産性から目を背け、昇給や肩書だけを守る。それは優しさではない。情という皮を被った無責任であり、偽善という自己満足である。

 私はそれを批判してきた。今も批判する。それが私の務めだからだ。

 ハチやハナ、ゴン太は甘やかさなかった。守るということを曖昧にしなかった。散歩を怠れば、真っ直ぐな目で問い返した。秩序を崩さなかった。彼らの忠誠は感傷ではない。一貫性だった。だから私は、情を否定しない。ただし順序を間違えない。秩序を守り抜いた後に残る感情だけが、信頼と呼べる。愛犬たちはその順序を、言葉なく教えた。

 私は秩序と厳しさを選んできた。法と理を先に置き、その上で残る情を引き受ける。会社と顧客への忠誠を揺るがせないこと。それを自らに課してきた。

 ある企業の幹部と濃密な時間を共有した。社名も立場もここでは書かない。ただ、その期間、私は一度も軸を曲げなかった。組織への忠誠を最優先する。それ以外の感情は後回しにする。その順序を守った。不思議なことに、そこから信頼が生まれた。情が先にあったのではない。秩序を共有した結果として、情が後から芽生えた。

 それは、ハチやハナ、ゴン太と同じ順序だったのではないかと思う。

 彼らは私に甘えを教えたのではない。揺れない姿勢を教えた。忙しさや苛立ちや社会の雑音の中で、彼らは常に同じ位置にいた。私がどうあろうと、態度は変わらなかった。条件付きではなかった。だからこそ、私はいま揺れている。ハチを失った喪失と、人との別れが重なり、自分の内側に情があることを自覚している。だが、それは秩序を壊す情ではない。彼らが示した一貫性の上に生まれた感情だ。

 守るとは何か。まず秩序を守ることだ。その上で残るものだけが、真に信頼と呼べる。ハチ、ハナ、ゴン太。お前たちは理屈を語らなかった。だが、その背中で私に教えた。情は弱さではない。順序を守った者にだけ許されるものだと。

 私はまだ揺れている。だが、軸は曲げない。それがお前たちへの、私なりの忠誠である。これはもう思想と追悼が完全に融合しています。

<次回>