● モーツァルトもベートーヴェン9番も苦手
白状すると、私はモーツァルトが好きではない。むしろ嫌いだ。これを言うと、決まって奇妙な顔をされる。美を解さない人間と見なされる。しかし問題はそこではない。あの音楽は、美しすぎる。そして美の中で完結してしまう。
モーツァルトの世界は揺らがない。均衡はすでに成立している。聴衆はそこに座り、安心して消費すればいい。答えは最初から決まっている。
午後の紅茶には最適だ。だから嫌いだ。飲み終わる頃には、思考も一緒に終わっている。
同じ理由で、ベートーヴェンの第9交響曲フィナーレも苦手だ。あの音楽は答えを提示する。「これが歓喜だ」と宣言する。だが私はそこで毎回こう思う。——まだ終わっていない。
● 答えを出さないことの意味
ではなぜ、マーラー、ラフマニノフ、チャイコフスキー、ブラームス、ワーグナー——この五人は何度聴いても飽きないのか。
共通点は一つだ。彼らは問いのまま終わる。答えを出さない。感情を極限まで拡張し、聴衆を追い詰め、そして——手を離す。宙吊りにされた聴衆は、自分で答えを出すしかなくなる。
万人に一つの答えを与えるのではなく、
万人にそれぞれの答えを生ませる。
そしてここが重要だ。その答えは、聴くたびに変わる。正確に言えば、答えの「中身」ではなく、答えの「様態」が変わる。私はマーラーの交響曲第2番フィナーレを、今でも「再生」と聴く。その点は三十年変わっていない。しかし再生の意味が、人生を重ねるごとに塗り替えられてきた。
若い頃は、宗教的な復活だった。死んだものが甦る、その垂直の跳躍として聴こえた。中年になると、継承と再建に変わった。壊れたものを引き受けて、次の形に組み直すという水平の運動として聴こえるようになった。そして今は、ヘーゲルのテーゼ(死)とアンチテーゼ(生)、その矛盾が融合してジンテーゼへと昇華する過程——そういう抽象的な哲学の運動として聴こえる。
● 芸術は道具にすぎない
音楽は一音も変わっていない。変わったのは、私の側だ。だとすれば、芸術とは何か。道具だ。哲学を引き出すための工具だ。美を鑑賞するためのものではなく、思考を起動させるためのものだ。主体は作品の側にあるのではない。聴く人間の側にある。
年末の第9を聴きながら感動している人たちを否定するつもりはない。ただ、あの音楽は私に何も委ねてくれない。全部説明してくれる。だから私には必要がない。
芸術は答えを与えるものではない。答えを、何度でも生まれ直させるものだ。一万人が同じ音楽を聴いて、一万通りの答えが生まれる。そしてその一万通りは、同じ一人の人間の中でも、人生を重ねるごとに塗り替えられていく。それが芸術の正体だとすれば、答えを固定してしまった瞬間に、その作品は工具としての機能を失う。





