2026年3月11日。庭は静かだった。昼下がりの光が熱帯の空気の中でゆっくりと落ちている。草はいつもより少し濃い緑に見え、白い小石の上に置かれた墓石の周りだけが、整然とした小さな空間をつくっていた。ここに長男ゴン太が眠っている。二年前の今日、彼はこの世を去った。
花を供えた。オレンジのガーベラを中心に、南国らしく色の強い花を選んだ。墓前に置くと、庭の緑の中でひときわ鮮やかに立ち上がる。ゴン太は派手なものを好む犬ではなかったが、花は生きている者が供えるものだ。静かな庭の中で、その色は不思議なほど似合っていた。

食べ物は決まっている。鶏レバーと鶏肉だ。生前、彼が本当に好きだったものだ。器に入れて墓前に置く。犬の供養に形式などない。だが、好きだったものを知っているという事実だけで、関係はまだ続いている。死は身体を奪うだけだが、ほかは奪えない。
灯りも置いた。小さなランタンの火がゆっくり揺れている。昼間なので意味はないようにも見えるが、灯りとは実用ではなく象徴だ。ここに時間が流れているという印である。
私は墓の前に座り、手を合わせた。合掌と言えば祈りを想像する人が多い。しかし、私は何も祈っていない。何を祈っているのか自分でもわからない。むしろ祈りという言葉は少し違う。

ただ、そこに時間があるだけだ。
目の前の墓は空間の断絶を示している。彼はここにいるが、もう触れることはできない。声も聞こえない。だが、もう一つの線がある。それは時間の線だ。
ゴン太と過ごした日々は、すべて過去の出来事である。しかし過去は消えていない。人間の記憶は時間を保存する装置だ。思い出すたびに、過去の時間は現在に接続される。だから私は祈っているのではなく、ただその時間の連続を感じているだけなのだ。
家族もそれぞれ静かに墓の周りに座った。長い時間をかけて、思い出を静かに胸の中で語る。最初に家に来た日のこと。散歩の癖。食べ物の好き嫌い……。
不思議なことに、悲しみと幸福は同時にやってくる。
思い出すほど、もういないことがはっきりする。だが同時に、こんな時間を持てたことがどれほど幸運だったかもわかる。悲痛と幸福は互いに打ち消し合わない。同じ場所に重なって存在する。
二年という時間が経った。一般には、時間が悲しみを薄めると言われる。しかし少なくとも私の場合、それは当てはまらない。気持ちは一ミリも変わっていない。もちろん日常生活は続いている。仕事もあるし、忙しい日々もある。だが、ゴン太に対する感情は、時間によって変質していない。
感情は消えていない。生活の中に沈んでいるだけである。今日こうして墓の前に座ると、その沈んでいたものが再び浮かび上がる。時間が巻き戻るわけではない。しかし過去の時間が、今の時間の中に流れ込んでくる。
それだけで十分だと思う。死は空間を断ち切る。しかし時間までは断ち切れない。人は思い出す限り、過去の時間を現在に連れてくることができる。だから今日の合掌は祈りではない。ただ、時間をもう一度共有するための静かな姿勢である。
庭の光はゆっくり傾いていった。花はまだ鮮やかで、ランタンの火は小さく揺れている。墓の前には鶏レバーと鶏肉が置かれたままだ。ゴン太がそれを食べることはない。それでも置いておく理由は、私たちが彼を忘れていないという事実そのものだ。そしてその事実こそが、今日という時間を静かに満たしている。
ところが、その静けさの中に、もう一つの記憶が重なった。
半月前、次男のハチもまた、この世を去った。ゴン太の三回忌の墓前で、ハチの顔が次々と浮かんでくる。庭を走る姿、食べ物をねだる仕草、こちらを見上げる目。時間の線は一本ではなく、いくつも重なっていることを思い知らされる。ゴン太と過ごした時間の上に、ハチと過ごした時間が重なる。そのどちらも、もう触れることのできない時間である。
気がつくと、涙が止まらなくなっていた。
悲しみが増えたのか、それとも愛情の量がそのまま表に出ただけなのか、自分でもよくわからない。ただ一つ確かなのは、彼らと共有した時間が、いまも確かにここにあるということだ。
墓の前の静かな庭で、私はただその時間の中に座っていた。




