SNSにおける「言論の自由」論争、民主主義の危機とは

 私のSNS投稿のコメント欄で、何度も、象徴的なやり取りがあった。

 ある人物が私の発言に対して「慎め」と書き込んできた。そこで私は「あなたは歓迎されない」と明確に返した。すると(時には別の人が)、「立花さんの対応も言論の自由の規制ではないか」と問いかけてきたのである。

 民主主義下の大衆がいかに「権利」「自由」を理解していないという典型的な事例である。

 少し視点を変えてみよう。あなたの家に、招待もしていない他人が勝手に入り込んできて、「その発言は慎め」と言い始めたとする。それは言論の自由の行使だろうか。普通に考えれば、まず家から出て行ってもらうのが当然だろう。

 SNSのタイムラインも、ある意味ではそれに近い。自分のFBでは、他人のコメントを削除することもできるし、特定の人物をブロックすることもできる。では、それは他人の言論の自由を剥奪していることになるのだろうか。

 もしそうだと言うなら、FBがそのような機能を提供していること自体が、言論の自由侵害の幇助行為ということになってしまう。しかし実際には、そんな議論は全く成立しない。

 理由は単純である。言論の自由とは根底から言えば、国家権力からの抑圧に対する自由であって、他人の発言空間を無制限に利用できる権利ではないからだ。

 民主主義は、言論の自由や権利を掲げる制度である。しかし、その制度は人間の理解力まで保証してくれるわけではない。むしろ逆だ。民主主義は愚かさを消す制度ではない。それを社会の表面にそのまま可視化してしまう制度である。

 民主主義の危機とは、制度そのものよりも、むしろ「権利」や「自由」の意味を理解しない大衆による濫用にある。そこにこそ、民主主義が内包する最も現実的な危うさがあるのである。

 言い換えれば、民主主義は、大衆の愚の露出装置でもある。

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