「フェイク」の正体、書き手と読み手の正体

 1点目、「フェイク」情報の正体。「フェイク」とは、4種類ある――。

 ① 捏造。大手メディアではごくごく稀(例: 慰安婦関係)。
 ② 推論。都合の良い事象からある希望的結論を導き出す(例: 某国指導者はがんや重病罹患)。
 ③ 切り取り。都合の良い事実の一部を切り取り、飾り立てて報じる(例: ウクライナ戦争報道の多く)。
 ④ 上記②と③の混合型。評論家や研究者がコラムや論文に多用する手法。

 少し詳しく例示しよう。ウクライナ戦争、マリウポリ陥落(ウクライナ軍敗戦を美化、飾り立てる)の報道から、言葉の表現や修飾、いってみれば言語の技法、いや、技法を超えて芸術を学ぶことができる――。

 降伏より死を→ 最後の一兵卒が死ぬまで戦え
 死より降伏を→ 勇敢な兵士を生還させよ
 もう戦えない→ 戦闘任務を完了
 白旗を上げる→ 退避作戦のための交渉
 投降する→ 退避する
 街を占領される→ 管理権を引き渡す

 太平洋戦争中の大本営も真っ青。「退却」を「転進」としたところで、後世に嘲笑されたが、それをはるかに超えている。

 2点目、「フェイク」情報の読み手。「フェイク」は書き手をばかり批判してはいられない。需要あっての供給、読み手あっての書き手。まず読み手側にも問題が多い。

 大方の読み手は、希望的観測を持っているが故に、あってほしい結論を裏付ける情報を欲しがる。逆にその結論を否定する反証を嫌い、本能的に排除する。すると、そうした顧客の需要に合わせて、書き手が書かなければ、情報が商品として売れないわけだ。

 さらに、読み手には、「事実判断」よりも善悪の価値が折り込まれた「価値判断」が先行してしまう傾向がある。

 これは読み手という立場に限った話ではない。例えば、ロシアとウクライナの戦争において、ロシアが悪だという先入観は、シベリア抑留など歴史上の出来事に基づく善悪の価値判断から生まれている。しかし一方、国際政治には、善悪という価値判断を差し挟むことはナンセンス。あらゆる事項は自国利益一本で捉えられており、事実判断でなければ意味がない。歴史的目線があってもいいと思うが、それはソ連崩壊後のロシアという時間軸で捉え、価値判断つまりロシアの善悪ではなく、事実に基づきロシアの内在的論理を理解し、分析しないと、意味がない。

 3点目、「フェイク」情報の書き手。ジャーナリストや論客、そのほとんどは給料や原稿料、講演料で生計を立てている。だから、ごく少数を除いて、雇用主やスポンサーの意図に従ってものを書かざるを得ないし、喋らざるを得ない。批判的思考と言っても批判できない時はそれを自ら放棄せざるを得ない。という事情がある。

 ほとんどの彼・彼女たちは、ある技術だけは長けている。それは求められる結論を支えるあらゆる断片的情報を集め、あらゆる大義名分を担ぎ出し、あらゆる修飾を施し、論理を出来るだけ編み出す技術である。そんなことってできるのか?自信を持って言おう。できる。ただし、修行が必要。

 何を隠そう。私もできる。よほど論理性の強い少数派を除いて、だいたいの大衆層向けのプロパガンダなら難なくこなせる。もちろん、やらない。私は文筆業で飯を食っているわけではないからだ。金銭的自由のために、高次である思想の自由を放棄するわけにはいかない。

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