徹底抗戦の美学、そして視座の調整

● 徹底抗戦の美学

 戦艦大和だけならまだしも、3000人の将兵を死に送り出す。さらに言えば降伏するなら、原爆投下前にすればよかったのではないか。「唯一の被爆国」など自慢できる話ではない。徹底抗戦の結果は、ただ死者と損失を増やすだけ。これは日本人がウクライナに送るべきメッセージだ。

 日本人は、「美弱」である。弱者はいじめられても、弱を正義や善、そして美に読み換えて自分に言い聞かせる。弱者の「善化」という現象が生じる。宗教は此岸(現世)の強者を彼岸(来世)の地獄へ送り込むことで、弱者のメンタルを強化する。しかし、日本人は一神教レベルの宗教を持たない。そこで全ての問題を此岸(現世)で解決しなければならない。それが厄介なのだ。

 「美」とは生があっての存在であり、どうしてもいうなら、死に方までではないだろうか。死んだら一巻の終わり。
 
● 視座を低くして世界を見る

 トランプ落選してからの1年は、私にとってたくさん勉強できた1年だった。
 
 昔、私は視座を高めようとし俯瞰的なアングルを取るよう努めていたが、今は逆に視座を低くし、当事者の目線に合わせて当事者から見る景色を捉えようとしている。例えば、私が習近平だったら、金正恩だったら、プーチンだったら、何が見えて何を考え、そして何をするか、といった具合だ。

 いわゆる「善悪」と無関係な当人目線をバーチャル的に身につけることだ。だから「立花が変節した」とかも言われたりする。それはどう見られても私は気にしない。

 自由主義・民主主義社会は、多様性を認めている。いわゆる「醜」や「悪」と規定される他者の視座が否定されるのなら、単なる偽善になる。大多数による独裁と全体主義にほかならない。

 トランプがプーチンを称え、金正恩とも親交を深めているのは何故?私の中にはすでに答えが見えたのだ。

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