香港に興味を失って久しい。しかし今これほど愛情を持つようになったのは、自分でも信じられない。自分の中になくなった、あるいはなくなりつつある何かを見つけ、取り戻したような気がしてならない。
「政府と闘っても勝てない」という日本人は1人や2人だけではない。そんなことは誰でも知っている。香港人も当然それを知っている。だが、彼たちは闘っている。勝ち目のない闘い、なぜ闘い続けるのだろう。
1票の権利を求めて勝ち目のない闘いを続ける香港人と、「1票を投じても何も変わらない」といって1票を捨てている日本人。両者にとって、「世界はそう簡単に変わらない」という答えだけは共有されるが、根本的な違いがある。それは自由を求めることと、自由を放棄することとの違いだ。
この根本的な違いを決して忘れてはいけない。そして、自由を有する者や自由を放棄する者には、自由を求める者を批判するいかなる権利もない。
自由とは実に微妙なものだ。人間は一生自由を求めつつも、手に入れた自由を恐れ、自由から逃げているのである。自由には責任と義務が付随しているからだ。敷かれた軌道や与えられた糧で安心感を手に入れる代わりに、自由を放棄する、そういう日本人が意外にも多い。それは一種の生き方であって非難されるべきではない。ただそれは「自由を放棄する自由」があって初めてできることだ。
香港人には普通選挙が実現できて、1票の権利、自由を得たとしよう。それで彼たちは幸せになるのだろうか。必ずしもそうなるとは限らない。相変わらずうさぎの小屋すら手に入らないかもしれない。相変わらず経済的格差が大きく貧しい暮らしを強いられるかもしれない。相変わらず現状への不満でデモをやるかもしれない。
ただ1つだけ、デモをやっても「民主自由がない」ことのせいにすることはできなくなる。催涙ガスを浴びることもなく、太鼓を叩いて「安倍やめろ」と叫ぶ日本人の真似だけはやめてほしい。