「喋る文明」と「黙る文明」、そしてAIの喋り方

● 「喋る国」と「黙る国」

 イラン戦争。喋りまくる米国とほぼ沈黙を守る中国。

 国家の外交や戦争の姿勢を観察すると、民主主義国家と権威主義国家には顕著な違いがある。民主主義国家はよく喋る国家である。政治家、議会、メディア、専門家、シンクタンクまでが国家戦略を日常的に議論し、その議論が外部に公開される。政策の方向、内部の対立、将来の選択肢まで、かなりの部分が事前に露出してしまう。

 一方、権威主義国家は基本的に黙る国家である。意思決定の過程は外部に見えず、議論も公開されない。外に出てくるのは決定された結果だけである。国家が何を考えているのか、どこまで準備しているのかは、外部からはほとんど読み取れない。

 この違いは外交や戦争の世界では決して小さくない。民主主義国家は透明性ゆえに予測されやすい。発言が記録として残るため、途中で戦略を修正すればすぐに矛盾や責任問題として追及される。政治家にとっては、修正そのものが政治生命に致命傷になり得る。結果として、必要な戦略修正であっても行動の自由度が制限される。

 一方、沈黙する国家は戦略の自由度を保ちやすい。最初から多くを語らないため、途中で方針を変えても、それは「方向転換」ではなく「もともと計画されていた戦略」として理解されればよいだけである。沈黙している国家は、修正してもそれが修正として見えにくい。

 さらに不透明な体制では、失敗した場合の処理も容易である。意思決定の過程が外部から見えないため、責任の所在を再構成することができる。必要であればスケープゴートを作ることも可能である。つまり不透明性は、戦略だけでなく責任の管理においても一つの武器になる。

 外交や戦争は、究極的には相手の意図を読み合うゲームである。人間は予測できる相手よりも、予測できない相手を恐れる。よく喋る国家は理解されやすい。黙る国家は理解されない。本当に怖いのは、大声で意図を語る国家ではない。最初から黙っている国家なのである。

● AIはなぜ「よく喋る民主主義」のように語るのか

 民主主義国家は「よく喋る国家」であり、権威主義国家は「黙る国家」である。

 最近、AI(西側系)と議論していて一つのことに気づいた。AIの語り方は、どこか「よく喋る民主主義」に似ているのである。理由を説明し、論点を整理し、バランスを取りながら議論を展開し、そして最後には無難な着地点を意図的に作る。その語り方は、まさに公開討論の文化そのものである。

 理由は単純である。AIは膨大なテキストから学習しているが、そのテキストの多くは公開された言語空間から来ている。新聞、論文、政策議論、SNS、公開報告書などである。そしてこうした大量の公開テキストを生産しているのは、圧倒的に民主主義社会である。つまりAIは構造的に、「よく喋る民主主義」の言語から多くを学習しているのである。

 しかし世界にはもう一つの文明がある。「黙る文明」である。外交や権力の世界では、沈黙は重要な技術である。意思決定の過程を外に出さない。議論を公開しない。外に出てくるのは決定された結果だけである。歴史を見れば、帝王学や統治術の多くはこの沈黙の文化の中で育ってきた。

 ところが沈黙する文明はテキストをあまり残さない。残さないものは学習されない。つまりAIの知識構造には、どうしても偏りが生まれる。よく喋る民主主義は大量の言語を生み出す。黙る文明は言語を残さない。AIは、その結果として「よく喋る民主主義」のように語るのである。

 だが、ここにもう一つ興味深い可能性がある。AIが学習していない領域、すなわち「黙る文明」の知恵を人間が持ち込み、AIと補完関係を作ることである。帝王学や古典的統治術、歴史の中で密かに伝えられてきた権力の技術は、現代民主主義の公開言語の中にはほとんど現れない。だからAIの通常の言語空間には、その思考様式があまり現れない。

 しかし人間がそれを持ち込めば話は変わる。AIは「よく喋る文明」の膨大な知識を整理し、人間は「黙る文明」の思考を補う。つまりAIと人間は対立する存在ではなく、むしろ文明の異なる知識体系を結びつける協働関係になり得る。AIがよく喋る文明の知を担い、人間が黙る文明の知を担う。その補完関係の中にこそ、AI時代の新しい知の形がある。

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