ERIS® HR Report アジア・中国版配信――地域統括本部HR課題の構造整理(情報共有)

 アジア・中国地域統括本部のHR問題は、しばしば「人材不足」や「制度差」として語られます。しかし実際には、多くの場合それらは表面的な現象にすぎません。各国からは日々、法令改正、労務紛争、人事制度、賃金動向などの情報が大量に上がってきています。問題は情報がないことではなく、それらが地域統括本部の経営判断に整理されていないことにあります。

 個別対応の情報は存在しているにもかかわらず、それが組織全体の判断論点として共有されないまま分断されている。この状態では、問題が起きても「各国の事情」として処理され、構造として把握されにくくなります。本レポートは、各国のミクロ情報を個別ベースで増やすことではなく、それらを地域統括本部の判断材料として再整理することを目的としています。

 地域統括本部の運営には、いくつかの点で問題が構造的に見えにくくなる特徴があります。

 第一に、問題が各国の制度差として認識されやすい点です。確かに制度差は存在しますが、実際には制度差そのものよりも、それを横断的に比較・把握できない構造が課題となるケースが少なくありません。
 第二に、課題が個々の人材の能力として理解されやすい点です。しかし多くの場合、問題は個人の能力ではなく、組織構造の中で可視化されにくくなっています。
 第三に、大きなトラブルが起きていない限り組織は安定していると受け止められやすい点です。しかし実際のリスクは、衝突や対立としてではなく、停滞や判断の先送りといった形で現れることが多いという特徴があります。

 第一の課題は、各国の人事制度が比較不能になっている点です。等級、評価、報酬体系が国ごとに異なるため、地域統括本部としては「どの拠点にどのレベルの人材がいるのか」「どの拠点がどの程度の付加価値を生んでいるのか」を横断的に把握することが難しくなります。この状態では、人件費は市場調整やベースアップによって積み上がる一方で、それが事業成果とどの程度連動しているのかを検証することが困難になります。その結果、人件費構造が徐々に固定化し、組織としての生産性との関係が見えにくくなる傾向が生まれます。

 第二の課題は、パフォーマンス低下やエンゲージメント問題が構造的に見えにくい点です。多くの企業ではサーベイや離職率などの数値は把握されています。しかし、なぜ成果が出ないのか、なぜ人材が離れるのか、どの層で価値低下が起きているのかといった構造的要因は十分に可視化されていません。組織に大きな対立や摩擦が表面化していない場合、それ自体が安定の証拠として受け止められやすくなります。その結果、付加価値が相対的に低下している人材が静かに組織内に滞留し、組織全体の生産性を徐々に押し下げるという現象が起こることがあります。多くの場合、それは明確なトラブルとしてではなく、「組織が重くなる」という形で現れます。

 第三の課題は、後任者育成と承継の空洞化です。多くの企業ではサクセッションプランが形式上整備されています。しかし実態を見ると、候補者の名前は存在していても、実際に任せた場合に組織が回るかどうかが検証されていないケースが少なくありません。特に問題となるのは、現場で蓄積された判断の背景や調整ノウハウといった暗黙知が体系的に引き継がれていない点です。このような知識が制度として整理されないまま個人の経験に依存している場合、結果として業務や判断が特定の個人に集中し、属人化が進みやすくなります。こうした状態は短期的には業務を円滑に進めるように見えることもありますが、異動や退職の際に組織運営のリスクとして顕在化するケースも少なくありません。駐在員の交替や帰任後に組織が不安定になるという現象は、人材不足というよりも、判断や知識の継承が制度として設計されていないことから生じます。

 第四の課題として、AI利用に関する統治の不在です。多くの企業ではAI導入の是非が議論されていますが、実際の職場ではホワイトカラーの多くが既にAIを業務の中で利用しています。問題はAI導入そのものではなく、組織としての利用ルールが整備されていないまま利用が広がっている点です。この状況では、AI出力の誤謬に対する責任の所在、判断の検証プロセス、機密情報の入力による漏出リスクなどが整理されないまま運用される可能性があります。結果として、企業としてAIを正式に導入していないにもかかわらず、実態としては統治されていないAI利用が広がるという状態が生まれています。

 第五の課題は、問題発生時の判断レベルが整理されていない点です。現地法人、地域統括本部、日本本社のどこがどの段階で関与すべきかが明確でない場合、問題は個別案件として処理されやすくなります。その結果、同種の問題が繰り返されても、組織としての学習や構造的改善につながりにくくなります。これは個人の能力の問題ではなく、グループ全体のガバナンス設計の問題として捉える必要があります。

 これらの課題は、当初は人事管理の問題として認識されますが、一定の段階を超えるとガバナンス、リスク管理、事業継続性といった経営課題へ転化します。その兆候は必ずしも大きなトラブルとして現れるとは限りません。むしろ多くの場合、現場の沈黙、判断の先送り、説明しにくい離職、責任の所在が曖昧な意思決定といった形で現れます。

 ERIS® HR Report は、各国情報の網羅を目的としたレポートではありません。各国の出来事を素材として、複数国に共通する構造を抽出し、地域統括本部がどの論点を見て判断すべきかを整理することを目的としています。つまり、個別対応のための情報ではなく、判断の前提を整えるための情報です。

 なお、本レポートで扱う論点については、オンラインでの情報提供に加え、対面での小規模な意見交換の場も試験的に設ける予定です。

 2026年5月にはシンガポールにおいて、アジア地域統括本部関係者を中心とした少人数の勉強会を予定しており、実務経験を持つ参加者同士が率直に議論できる場として運営する予定です。また、同様のテーマについては、2026年7月に上海において中国地域統括本部関係者を対象としたセッションも予定しています。

 こうした小規模な対話形式の会合を通じて、現場の経験と構造的な分析を結びつける議論を今後も継続していくことを検討しています。

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