朝日新聞に対する非難と批判は衰える気配がない。一方、声を細くしながらも朝日新聞を庇う人も存在する。
「朝日新聞の誤報というのなら、産経や読売にも誤報がある。お互い様だ。朝日叩きはほどほどにしたら・・・」
あまりにも幼稚な論点のすり替え手法はまさに、朝日流である。産経や読売に誤報があったら、朝日も同様に特集を組んで指摘、批判すればいいのではないか。結局、購読の是非を判断するのが読者であろう。
人間なら誰もがミスを犯す。AさんがBさんのミスを指摘したら、Aさんにもミスがあるのだから、Bさんを指摘するな、という論理は成立しない。ミスのある人が他人のミスを指摘する資格がないというのなら、この世の中はどんどんミスにミスを重ね、罪に罪を重ね、救いようのない世界になってしまうのではないか。
朝日新聞を潰そうという声が上がっているが、意外にも潰れないのではないかと思う。戦前や戦中に朝日新聞は、いわゆる軍国主義のメディア急先鋒だったところから、戦後一気に転向して今度左翼リベラルの牙城に変身した事実を忘れないでほしい。
ご時勢に合わせて空気を読み取り、ミーハーな売れ線狙いの徹底的な商業主義に徹しているのは、朝日新聞ではないか。そもそも主義や原理原則などもっていたのだろうか。いま、世に叩かれる朝日新聞はいざ購読部数や広告出稿の減少に直面し、社員の高給取りも維持できなくなり、過酷な経営環境に置かれた場合、今度再び、右折して転向する可能性はないのだろうか。これからの紙面の論調を十分に吟味していく必要があるだろう。転向は急旋回するのではなく、徐々に徐々にフェードアウトするからである。
「偏向」も「転向」も結局商業主義の表れに過ぎないが、朝日新聞に根性があるのだったら、どんなことをやってても、どんなことをやられてでも、そのイデオロギーを捨てず、左を貫き通してほしい。「転向」を拒否してでも、「偏向」を貫くのはメディアのせいぜいの気骨ではないか。
世の中はいろんな声が必要だ。そういう意味でも左も右もそれぞれの存在意義がある。ただひとつ、事実を捻じ曲げることは決して許されない。32年のツケはきちんと清算しなければならない。
<終わり>