雨だれ、美しい世界にするために・・・

 上海は、連日の雨。大自然の営みに耳を澄ませてみると、ショパンの「雨だれ」(ショパン24の前奏曲(作品28)の第15番目)を思い出す。

 スペインのマジョルカ島で恋人ジョルジュ・サンドと静養中のショパンが作った曲だ。「雨だれ」と呼ばれるのは、途切れなく続く伴奏の変イ音が雨だれのように聴こえてくるからだろう。雨だれが軒下からしたたり落ちる音を美しく表現する名曲である。

 雨の音、水の音。洋の東西を問わず、文学や芸術の領域をのぞいてみると、美しさがいっぱいだ。

 「古池や蛙飛びこむ水の音」

 「動」と「静」がこれだけ見事に合体した表現はほかにない。「動」で「静」を表現し、また「静」で「動」にライブ感を与え、弾んだ躍動感と劇的な高揚感に溢れ、わびやさびの満ちた水墨画の世界で感動を覚える。

 形容詞は使われていない。

 先日、読者の書込みコメントで、中国の学校における作文教育の弊害が克明に指摘された――。「優秀とされる作文の条件の一つに、形容詞をふんだんに使って修飾されていることというのがある。成績優秀で、有名大学出身の中国人の書くビジネスレポートが、およそ感想文か散文のような代物になりがちなのは、このこととの関係が非常に深い」

 「お会いできて嬉しい」、「お目にかかれることを考えて昨夜は眠れませんでした」・・・「嬉しい」ことをどう表現するか。形容詞を直接に使う表現とそうでない表現の差が歴然としている。

 レストランで、私は料理人に、「美味しい」という形容詞を使わないように努力している。逆に、「失礼します」という一言と、料理のソースまで飲み干す行動で、料理人が「私に対する最高の褒め言葉ですね」と喜んでくれたことは何度もあった。

 女性に対して「美しい」と褒めるのも決して一流ではない。さあ、女性の美しさをどう表現すればいいのか、答えは無数にあるはずだ。工夫次第で、女心の口説かれ方も違ってくるだろう。

 部下を褒めることも同じだ。「よくやった」「よく出来た」よりも、いい褒め方を上司が考えなければならない。

 形容詞は、一種の結論付け的な表現である。既製品である以上、価値が落ちるのも当然だ。廉価な形容詞の使用を控えよう。感性を磨こう。