偽右の生態(1)~デマと陰謀論で偽装戦闘、ドン・キホーテと阿Qの劣化版

● デマを「武器」に「戦っているふり」をする

 偽右のタチが悪いのは、デマを「武器」ではなく「信仰道具」として使う点である。彼らにとって真実は確認するものではなく、創作するものである。都合の良い嘘を作り、それを仲間に配って回る。まるで宗教の聖餐式だ。デマを口に含んで一斉に「これが真実だ」と唱える。すると、不思議なことに彼らの世界ではそれが本当に真実になる。

 偽右の共同体は、理性ではなく自己暗示で維持されている。ファクトチェックよりも、仲間チェック。情報の正確さではなく、忠誠の純度が重視される。だから、一人が嘘を言えば十人が拍手し、百人が拡散する。こうして虚構は自己繁殖を始め、やがて「保守」という言葉の皮をかぶったカルトになる。

 本物の保守が秩序を守る思想であるのに対し、偽右は混乱を演出して「戦っているふり」をする。彼らにとって敵は思想ではなく、自己存在の証明道具だ。だから、敵がいなければ作る。真実がなければ捏造する。敵が滅べば次は仲間を攻撃する。つまり、永遠に戦い続けなければ自分を保てない哀れな群れである。

 彼らの掲げる愛国心とは、国を愛することではなく、自分たちが「正義の民」であるという幻想を愛することだ。デマを拡散するたびに、自分の信仰心が試される。だが、その信仰は神ではなくアルゴリズムに仕える偶像崇拝である。今日も偽右は、真実を嫌い、デマを愛し、クリックの音に祈りを捧げている。

● 陰謀論で戦わずして「英雄」になる

 陰謀論とは、戦わずして「英雄」になれる最も安上がりな装置である。敵の悪を盛れば盛るほど、自分の正義は比例して高貴になる。相手が悪魔なら、自分は天使でいられる。敵が闇の組織なら、自分は光の戦士でいられる。こうして、現実の政治は退屈でも、頭の中の戦場では常に勝利のラッパが鳴っている。

 陰謀論の本質は、敵を倒すことではなく、敵を作り続けることにある。敵が巨大であればあるほど、自分の存在も膨張する。だから彼らは真実を知りたくない。真実が明らかになれば、戦う理由が消えてしまうからだ。陰謀論者にとって平和は脅威であり、闘争は麻薬である。

 こうして「悪のアップグレード」が進むたびに、世界はどんどん単純化される。善と悪、我々と奴ら、光と闇。まるで子供向けのアニメである。しかし本人たちは真剣だ。スマホの画面の中で戦い、リツイートの数を戦果として数え、コメント欄を戦場と呼ぶ。偽右にとって陰謀論は、思想ではなく栄養ドリンクである。飲むたびに正義感が増し、攻撃性が高まり、思考力は下がる。

 結局のところ、彼らが守っているのは国家でも伝統でもなく、自分が「正しい側にいる」という陶酔である。真の敵は外にいない。彼ら自身の内側に潜む、思考放棄という最大の悪である。

● ドン・キホーテと阿Qの「複合的愚者」

 陰謀論に酔う偽右たちを文学的に分類するなら、ドン・キホーテ型と阿Q型の両方が混じり合った、極めて現代的な「複合的愚者」である。

 ドン・キホーテは、理想に憑かれた狂人である。彼は現実の風車を巨人と思い込み、勇敢に突撃する。その滑稽さの裏には、現実に抗う純粋な信念がある。ゆえに彼の狂気にはまだ気高さがある。だが、現代の偽右にそれはない。彼らの敵は風車ではなく、SNSのアルゴリズムが見せる幻影である。彼らは誰かの陰謀を叩いているつもりで、実際にはただ「怒ることで安心したい」自分と戦っている。つまり、信念なきドン・キホーテである。

 一方、魯迅の描いた阿Qは、自分が負けても「精神的には勝っている」と言い張る存在である。現実の敗北を受け入れられず、「俺の方が上だ」と言葉で自己安慰を繰り返す。偽右の多くは、まさにこの阿Q的構造に陥っている。現実では何も変えられないが、SNS上で敵を罵倒すれば「戦っている気分」になれる。陰謀論はその幻想を永遠に供給してくれる。

 ドン・キホーテが理想を追いすぎて現実を見失ったとすれば、阿Qは現実に屈して理想を装った。現代の偽右は、この二つの劣化版である。現実を知らず、理想も持たず、ただ怒りを消費して自我を維持する。風車も敵も存在しないが、戦っているつもりになれる。それが彼らの幸福であり、悲劇でもある。

 もし魯迅が現代日本に生きていたなら、きっとこう書くだろう。「彼らは阿Qの末裔でありながら、阿Qよりも愚かである。なぜなら、彼らは笑われていることすら自覚していないからだ」

<次回>

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