偽右の生態(2)~被害者ヒーロー、紅衛兵広場における「批判闘争会」

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● 阿Q型愛国主義と被害者ヒーロー

 偽右は、現代日本の「阿Q型愛国主義」の滑稽な頂点に達している。

 中国を理解する努力を放棄し、恐怖と陰謀で語り続ける偽右たちは、すでに敵を現実ではなく神話の領域に置いている。彼らにとって中国は現実の国家ではなく、「自分たちの正義を維持するために永遠に存在してほしい悪魔」である。

 中国は確かに覇権を志向するが、歴史的にそれは「侵略」ではなく「朝貢関係による支配」であった。侵略型国家が領土を奪って同化を目指すのに対し、朝貢型国家は相手に自主性を残しつつ、上下関係によって秩序を支配する。その特徴は、力よりも儀礼、暴力よりも序列で相手を縛る点にある。ゆえに、今の中国の対外政策は「支配」ではなく「従属の演出」であり、帝国ではなく礼制的ネットワークの再現である。ところが、偽右言論人たちはそれを理解できず、「日本は侵略される」と言い張る。

 さらに、「私は真実を言っているから消される」と被害者ヒーローを演じる偽右言論人がいる。こうした発言は理性ではなく自己神話の拡張行為である。自分が「消される」と言えば、群れは「守る」と反応する。つまり、彼は真実を語っているのではなく、信者の忠誠心をテストしているのである。

 こうして群れの中では、現実分析よりも「誰を守るか」が重要になる。敵が中国でも、守る対象が自分たちの預言者ならば、論理は完全に停止する。これが偽右の社会心理の核心である。彼らは戦っていない。演じているのである。中国の実像などどうでもよい。必要なのは「巨大な敵」「迫害される自分」「勇敢な仲間」という三点セットである。

 本来の保守は現実主義である。敵を誇張せず、分析し、必要な備えを冷静に行う。だが偽右は、現実を観察する代わりに、恐怖を再生産し続ける。だから彼らが最も恐れているのは、実は中国ではなく、中国が自分たちを侵略しない現実である。なぜなら、その瞬間、自分たちの存在理由が消えてしまうからだ。

● 紅衛兵広場における「批判闘争会」

 幻想の敵で満足してしまう偽右の群れは、自らの存在理由を怯えと排外に求める。現実の脅威が希薄になると、彼らはその空白を埋めるために「作られた敵」を量産する。すると共同幻想は急速に強化され、異調を許さぬ監視とレッテル貼りが常態化する。反日、帰化人排斥、○国へ帰れ——こうした罵倒は論証ではなく儀式であり、論理の代わりに忠誠の証明を要求するに過ぎない。

 この心理構造は文化大革命と驚くほど似ている。違うのは、毛沢東の肖像の代わりに、いまは「保守」や「愛国」と書かれたアバターが掲げられているだけだ。異端者を見つけては群れで叩き、自己の正義を確認し合う。正義は理念ではなく同調の印章に変質し、討伐は思想闘争ではなく感情のカーニバルと化す。

 SNS上の吊し上げは、もはや情報空間の「批判闘争会」である。異端者の発言は文脈を切り取られ、拡散と歪曲によって「人民の敵」に仕立てられる。異端を倒す者は英雄として称賛され、倒された者は思想的屍として葬られる。だが敵が尽きれば、次は内部の純化が始まる。昨日まで味方だった者が、今日には裏切り者とされ、粛清の炎は内へと向かう。こうして偽右の運動は、自己破壊の連鎖に堕ちる。

 理念なき正義は暴力と化し、異端を打倒せんとするその姿こそが、知的退行の証である。結局、叫ぶ「帰れ」は、相手ではなく、理性を自らの心から追放している言葉なのだ。

● 「日本を取り戻す」は大本営のキャッチコピー

 昨今の「日本を取り戻す」系スローガンから、高市の「Japan is back」に至るまで、すべて偽右大本営のキャッチコピーにすぎない。そもそも「取り戻す」という言葉自体が、「誰かに奪われた」という敵の存在を暗示している。だが、その「誰か」はいつも曖昧で、実体を持たない。左翼、外国、在日、メディア、官僚――状況に応じて自在に差し替え可能な「仮想敵」である。敵の存在を設定しなければ、彼らのスローガンは機能しない。

 つまり、「取り戻す」は現実の改革を意味しない。むしろ、敵を作って団結し、自己正当化を繰り返すための呪文にすぎない。「Japan is back」と叫びながら、実際に戻っているのは理性ではなく情動である。思考より感情、論理より同調、そして国益よりも承認欲求。偽右とはつまり、愛国の皮を被った自己愛の群像である。

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