● トランプの豹変
二期目のトランプは暴走している。彼はなぜ豹変したのか?彼は悟ったのだ。民主主義制度下の独裁のやり方を悟ったのだ。一期目は政治の素人だった。二期目は統治技術を覚えた政治家になった。
紳士よりもならず者の乱暴が演技になれば意外にも受けが良い。乱暴な言葉、攻撃的な態度、常識外れの行動。普通なら嫌われるはずだが、それが演技として成立した瞬間、話は変わる。大衆はそこに「本音」や「反抗」を感じる。つまり、ならず者が支持されるのは、実際に乱暴だからではない。乱暴を演じているからである。
高市も少々似た物同士のおばちゃん版。日本人的な表現だと、「はっきりものを言う」。だから聞いている無知な大衆は「スッキリする」。私が繰り返してきたように、政治学ではなく、心理学で説明したほうが分かりやすい。
トランプも高市も、任期という制限を受ける中で、いかに短期的にパフォーマンスを上げるか、という課題に似たような答えを出している。
● 任期という魔物
私の民主主義批判に対して、反論があった。「民主主義の強みは『任期』だ。任期があるから、暴走があっても、その暴走は長続きしない」と。しかし、残念ながら、この反論は、成立しない。
第一に、「民主主義は暴走を抑止する装置である」という神話はすでに壊れている。民主国家が戦争、暴走を始めた例など歴史にいくらでもある。監督や任期があるから暴走しない、という説明は崩壊している。火事が起きている家の前で「この家には消火器があります」と説明しているようなものだ。
第二に、暴走は任期満了まで待ってくれない。暴走は国益の毀損につながり、限界を超えた暴走は、国家そのものを壊すこともある。船が氷山にぶつかった後で「船長には任期がありました」と言っても意味はない。沈んだ船は次の船長を待たない。
第三に、「任期があるから、暴走があっても、その暴走は長続きしない」との指摘だが、結果は「暴走は長続きできないから、できる内にもっと激しく早く暴走する」である。任期は抑制ではなく暴走の加速装置にもなる。時間が限られている政治は短期の成果や劇的行動に走りやすい。
第四に、結果として政権交代のたびに路線が急転し、ある暴走から別の暴走へと振れる。民主主義の安全装置どころか、場合によっては「輪番制暴走システム」になる。
任期があるから安心、という説明は、制度を現実と取り違えた盲目な楽観論である。暴走を止めるのは任期ではない。任期はただ一つのことしか保証しない――。次の暴走者が登場する時刻である。
● 民主主義という妖怪
プラトンはすでに二千四百年前、『国家』の中で民主政の行き着く先を見抜いていた――。自由が放縦に変わり、規律が嫌われ、知恵ある者が軽蔑され、最後は煽動家が大衆を操って僭主政治へ転落する。民主政は、秩序を失った自由が自らを破壊する過程にすぎない、と。
その二千年後、オルテガは『大衆の反逆』で同じ現象を別の言葉で描いた――。問題は「人数」ではない。問題は「精神の質」である。教養も自己抑制も持たない大衆が、自分を世界の中心だと信じ、権利だけを主張し、義務や限界を理解しない。そこから政治は急速に劣化していく。
つまり、民主主義の危険は独裁ではない。無知な多数が、自分の無知を自覚しないことだ。私はこの種の「無知の知を持たない」ことを「無恥」と呼ぶ。だからこそ、本来の意味で言えば、民主主義への参加資格とは単なる年齢や選挙権ではない。歴史を学び、制度を理解し、人間の愚かさを知り、権利と責任の緊張関係を理解する知的訓練を経た者に、ようやく担えるものだ。古典とは、その訓練の入口である。
プラトンも読まず、オルテガも読まず、それでもなお民主主義を語る。これは議論ではなく、無免許運転に近い。車の運転には免許がいるのに、国家の進路には無免許で口を出せる。民主主義の最大の欠陥はここにある。無知は恥ではない。しかし、自分の無知に無自覚なまま「民意」を語る者は、民主主義の担い手ではなく、民主主義を食い潰す側である。
プラトンとオルテガを読めば、その意味がよくわかる。
● 「独裁に憧れている」人たち
「立花さんは独裁に憧れている」と私を批判する読者がいる。トランプ大統領の次の発言群を共有したい。
まず 習近平について。2018年、任期制限撤廃の際に「彼は今や終身国家主席だ。素晴らしい。多分我々もいつか試すべきだ」。これは明確に権力の集中を肯定的に語っている。
次に 金正恩について、複数回にわたり、「彼の国民は彼を見てすぐに気をつける」「彼のような指導者になりたい(“I want my people to do the same”系発言)」
民主主義で選ばれたトランプ大統領は、民主主義の任期制度の欠陥と独裁権威制度の相対的優位性に気づいたのである。それを持って「トランプは独裁に憧れている」と言えるのだろうか。制度構造と機能を比較する人にレッテルを貼る。そもそもそれ自体が民主主義が掲げる「多様性」「包容性」原則に反していないだろうか。
民主主義とはこういうものだ。




