「九条を守る改憲」もあり、高市改憲は通すためのものではない

● 改憲とは何か?

 高市自民党の圧勝を受けて、「改憲が現実味を帯びた」「国民投票で通ってしまうのではないか(通らないのではないか)」といった言説が急増した。だが、この反応には一つの決定的な欠落がある。それは、改憲を結果、つまり「通過するかどうか」の問題としてしか捉えていない点だ。本当に問うべきなのは、改憲が通るか否かではなく、高市にとって改憲とは何なのか、という問いである。

 多くの議論は、憲法第九十六条を確認し、国民投票というハードルを指摘し、「だから簡単には通らない」「いや、勢いで通るかもしれない」といった往復運動を繰り返す。しかしこれは分析としては浅い。なぜなら、それらはすべて、高市の目的が「改憲の成立」であることを無意識の前提にしているからだ。選挙結果と国民投票を直線で結び、自民党圧勝から改憲可決までを一本の線で描く思考は、政治を点の勝敗でしか見ていない。

 視点を変えれば、まったく異なる像が浮かび上がる。高市の目的は、改憲を通すことではない。改憲を発議し、国民投票という回路に乗せること、そこまでではないか。国会発議から国民投票に至るというプロセスは、戦後日本政治において長く触れてはならないタブーだった。それを一度でも現実に起動させることができれば、結果が可決であれ否決であれ、意味は決定的に変わる。憲法は神棚から降り、可動する制度になる。

● 高市早苗は安倍晋三を超える

 発議し、国民に問い、国民が判断する。この一連の手続きを現実にやり切ること自体が、戦後タブーの打破であり、制度史上の事件である。仮に国民投票で否決されたとしても、高市は敗者ではない。むしろ、政治家としてやるべきことをすべてやった存在になる。国会で発議し、国民に問い、結果を引き受けた。これは、日本の保守政治が一度も果たしてこなかった責任の取り方である。

 その時点で、高市は単なる「改憲を唱えた政治家」ではなく、「改憲という手続きを現実に起動させた政治家」になる。これは政治史上の評価軸を一段引き上げる行為であり、結果として、安倍晋三が到達できなかった地点に立つことを意味する。可決されなくても、歴史は書き換わる。高市は成功者としてではなく、制度を動かした者として記録される。

● 改憲=九条という短絡

 九条の話はいったん措くとして、戦後八十年、一度も本格的に見直されてこなかった憲法そのものについて、私は「見直すこと」自体に強く賛成する。私は通常の選挙投票を拒否しているが、それは代表制民主主義への不信によるものであり、国民が直接判断する別の意味での国民投票には必ず行く。賛成か反対かは、改憲の内容次第だ。

 だからこそ、私は無条件に賛成でも反対でもない。その前提において、改憲という行為そのものには賛成である。

 ここで重要なのは、改憲が九条に限定されないという点だ。改憲=九条という短絡こそが、日本の議論を硬直させてきた最大の原因である。だからこそ、「九条を守る改憲」「九条は次世代の判断に委ねる」という整理が意味を持つ。これは護憲でも改憲強行でもない。不可逆性の高い判断を、今の世代が独占しないという、制度設計の問題である。

 九条を棚上げにすることで、改憲は思想闘争から離れ、統治や制度整備の議論に戻る。そして何より、「改憲とは九条を壊すことだ」という反射的思考を解除できる。改憲が通るかどうかは重要ではない。改憲を、国民が判断できるテーマにまで引き上げたかどうかが重要なのだ。

 結局のところ、ここで行われているのは価値闘争ではない。制度をどう可動化し、判断可能性を次世代に残すかという設計の話である。その意味で、高市の政治は、通過を目的としない改憲という新しい位相に立っている。これは右でも左でもない。制度屋の仕事である。

タグ: