● 三つの圧勝モデルと最も危険な型
日本はすでに異常事態、あるいは非常事態に入っていると見るべきである。自民党が191議席から316議席へと、わずか1年3か月で1.65倍に膨張した。
この種の反転は世界の選挙史を見渡しても稀有だ。平時、先進民主国、短期間という条件がそろう例はほとんどなく、あったとしても大恐慌、戦争、政権崩壊といった非常事態が前提になる。
この規模の回復を、政策の中身や実績評価で説明することはできない。説明できるのは、高揚感の動員と敵対軸の単純化という、心理的・象徴的な要因だけである。つまりこれは、強さの証明ではない。振れ幅の大きさを示す現象であり、同じ速度で逆方向にも振れうる前兆だ。一言で言えば、稀有だが健全ではない文脈で起きた反転である。
日本近代史を振り返ると、大勝には三つの型がある。
第一は東條英機である。彼は一人の暴走に徹し、自らの意思でブレーキを外し、アクセルを踏み続けた。止める意思は最初からなかった。
第二は小泉純一郎である。群衆の熱狂を道具としてアクセルを踏んだが、最後には自分でブレーキも踏んだ。止める意思も力も持っていた。
第三が高市早苗である。彼女は群衆の熱狂の道具になり、ブレーキを外され、その熱狂に縛られている。止める意思はあるが、止める自由も力もない。
最も危ないのは第三の型だ。本物の群衆暴走である。東條は責任を取らされた。小泉は責任を持って始末した。高市の場合、責任は群衆にあるとされる。この構図こそが、民主主義の最も危うい瞬間である。
● ブレーキなき民主主義の恐怖
ブレーキの問題を考えよう。独裁権威主義では、一人の政治家にブレーキをかけることは難しいが、大衆にブレーキをかけることはできる。民主主義ではその逆で、一人の政治家にブレーキをかけることはできるが、大衆にブレーキをかけることはできない。どちらが怖いか。最も怖いのは、一人の政治家が自らブレーキを踏もうとしても、暴走する大衆に押し出されてしまう局面である。
偽左派は「権力が戦争を始めようとしている」と語る。だが実態は逆だ。国民の側が、戦時に近い意味付けと準戦時の空気を欲している。それは恐怖ではなく、高揚と安心感によって支えられている。毅然、覚悟、誇り、我慢。そうした言葉が生活の重さを一時的に忘れさせる。
厄介なのはここからだ。本人は戦争ごっこのつもりでも、他人はそうは受け取らない。演技のつもりでも、外から見れば本物に見える。偽物が本物として扱われてしまう。これほど危険なことはない。なぜなら、その瞬間、中国は大義名分を手に入れるからだ。軍国主義が復活しつつある国に対する自己防衛、安保という名目で、サプライチェーンの一部を切ることができる。制裁ではない。
日本の軍事力や経済力で中国に勝ち目はない。本気でやる話ではない。しかし偽右は、そう言わせない。結果として、日本も中国も戦争はしない。するのは戦争ごっこだけだ。だが戦争ごっこは無料ではない。供給を止められる企業、薬や部材が薄くなる現場、精神で耐えることを求められる国民が損をする。つまり戦争ごっこで一番損をするのは、ゲームをしているつもりの当事者自身である。
● 圧勝後に突きつけられる三つの選択
高市早苗は、大勝の二日酔いが醒めた頃、頭を抱えることになる。残っているのは酒ではない。
第一の命題は理性である。安定政権を得た以上、財政、産業、外交で現実路線に舵を切りたい。調整、妥協、段階的実装。政権運営としては正解だ。
第二の命題は感性である。圧勝を生んだ支持は、高揚、覚悟、強硬という感情動員で回っている。これは連続刺激を要求する。刺激を弱めれば裏切りと見なされる。
この二つは同時最大化できない。解は三つしかない。
一、表で強硬な物語を維持し、裏で現実路線を進める。政治的には裏切りだが、政権維持の常套手段である。
二、強硬を保ったまま理性も入れる。失敗確率は高い。
三、あるいは高揚を優先し続ける。最も危険な道だ。
結論は明白で、高市が解に最も近づくのは最初の選択だけである。しかしそれは、支持者が求めた高市像の否定でもある。生活が改善されないまま、群衆は醒め、反転する。時間はかからない。
● アジアから見た「極右化した日本」という像
アジアに住む者としての実感を述べる。アジアでは、極右国家化した日本というイメージは、すでに広く共有され始めている。問題は、高市政権がそれを明確に否定していない点にある。かつてなら誤解だ、専守防衛だと火消しをした。だが今は、国内向けの高揚を優先し、外からどう見えるかをあまり気にしていない。その沈黙がイメージを固定する。
日本は極右国家になったのではない。極右国家として扱われても仕方のない位置に、自ら立ってしまっただけだ。しかも今回の選挙で、中道を名乗る党が日本人自身によって叩き潰された。この事実がある以上、弁解は成り立たない。本物の極右国家には、それに見合う経済力と軍事力が必要だ。
今の日本は、幕下が横綱の番付を与えられたようなものだ。体は出来ていない。それでも観衆の熱狂を力と誤認し、横綱と相撲を取ろうとしている。
日本は本気で極右化していない。しかし外から見ると、極右であるかのように振る舞う言語、記号、演出が増え、そのイメージが先に実体化している。これは思想の右傾化ではなく、国際記号としての右傾化である。そして華人系社会では、過去の記憶がその記号を増幅する。日本が長年選んできた説明しない戦略の帰結として、像が実体を規定し始めている。
この構図を否定するか、修正するか、戦略的に引き受けるか。もはや評価の段階は終わった。問われているのは選択である。





