銃を手に取る国民、単に英雄視できないそれだけの理由

 侵入したロシア軍と戦うために、ウクライナ当局は、国民に約1万8000丁の銃を配布した。

 人間はもともと動物同様、殺し合ったりしても犯罪にならなかった。実定法がなかった時代には、自然法があって、それが個体間の殺し合いを容認していた。

 安定な生活をするために、人間は集団を組み、構成員が資金(税金)を出し合って防衛体制を作ろうと試み、出来上がったのは国家だった。ルソーの社会契約説の原型はここに起源していると言ってよい。

 防衛は専門集団(軍)に委ねた以上、敵が攻撃してきた場合、軍以外の者(いわゆる民間人)は戦闘行為に加わらないことが鉄則。

 しかし、いざ全民皆軍になると、防衛義務の国家への外注体制が崩れ、自然法の状態に逆戻りしてしまう。本当の意味での「(個体)自分は自分で守る」状態に転じる。

 こっちの「全民皆軍」はいいが、敵に言わせてみれば、「全民皆敵」になり、無差別攻撃に恰好の口実を与えてしまうわけだ。

 そこで問題が発生する、全民といっても、本当の全員ではない。防衛義務を国家に委ねたつもりで戦う意思のない民間人まで巻き込まれて敵のターゲットにされてしまう。この問題の最終的責任は国家にある。

 何事も世界や社会の仕組みを理解する必要がある。単なる「逃げない」とか「最後まで戦うとか」とか「英雄」とか、そう単純ではないのだ。

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