「依存心」と「甘え」は日本人を殺している

 日本は、戦後前半40年の偶然的な「非ノーマル」から後半40年の必然的な「ノーマル」に至った。「失われた◯◯年」は日本人の錯覚に過ぎない。「所有」していないものは、「喪失」と言えないのだ。

 日米安保体制もサラリーマン制度もそれら自体が世界的にみても非常識。日本が米国に対して、日本人が会社に対して、「言うことを聞くから、守ってくれ」という権利と義務の関係をつくった。つまり、国家から個人まで、「依存」という本質を正視することなく、甘えてきた。

 依存している以上、ルールの制定権も改定権も皆無だ。さらに契約(約束)破棄になす術がないのは言うまでもなく依存する側だ。その依存を、日本人は「安心」「安全」に勝手に置き換えた。しかし、「安心」と「安全」はまったく異なる概念だ。説明しよう。

 「安心」は主観的状態。「安全」は客観的状態主観からは客観が生まれないのだ。逆に安心し切ったところで、忍び寄る危険を見落とし、自ら「不安」状態を招く。つまりは「安心」から「危険」が生まれるというパラドックスが存在している。

 ついに、「不安」「危険」が生まれた。会社は日本人に対して、「守れなくなった」と宣言し、終身雇用の契約破棄をしようとしている(すでにしている、した)。これを例に学ぶことなく、日本人は依然として米国が日本を「守ってくれる」と信じているのは、学習力(習得力)がないどころか、体得力すらないといえる。

 日本人の最大の弱点は、「甘え」。甘えと依存心は双子だ。

 だから、日本の国連常任理事国入り(そもそも無理だが)は、米国の1票を2票にするだけという「量」的変化に過ぎず、日本の国益レベルにおける主体性の体現という「質的」変化に至らない。その量的変化から、逆に日本の国益減少・毀損につながる場面すらある。他国依存傀儡国家には常任理事国の資格は、ない。

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