西側メディアから、ゼレンスキーを矮小化する報道は、これからどんどん増えるだろう。
ウクライナに「戦え」と言えるのは米国、「撃ち方やめ」と言えるのも米国。勝ち目のない戦いは早い段階でやめる。ビジネスも軍事も同じだ。米国はそう判断したら、すぐにでも方向転換する。しかし、ゼレンスキーには、降伏したくても降伏できない事情がある。
ゼレンスキーは独裁専制と戦う英雄として西側に祭り上げられた。単なる英雄だけではない。反ゼレンスキー即ち反民主主義と、このコメディアンはポリコレの象徴となり、いささか教祖のオーラまでちらつかせ、一世を風靡した。各大国の国会議員たちは神聖なる教皇を迎えたかのように、ゼレンスキーのオンライン演説に満場総立ちして、スクリーンに向かって拍手を送らざるを得なかった。
しかし、オーラがフェイドアウトしようとしている。それはゼレンスキー本人にとっては精神の死を意味する。さらに、肉体の死、その危険も忍び寄る。戦争に絡んだ利害関係者は決して少数ではない。国内の政治勢力も一枚岩ではない。なかにゼレンスキーの身の安全を脅かす人たちもいるだろう。
ゼレンスキーは葛藤を抱え、眠れぬ夜が続いているに違いない。世の中、勝負して負けたら降伏する。しかし、降伏できないことが一番恐ろしい。コロナに世界が降伏したくても降伏できない。プーチンにゼレンスキーが降伏したくても降伏できない。それは大変なことだ。
逃げ道を残すか、背水の陣を敷くか、意思決定はまずこうした出口戦略から始まる。しかし、背水の陣を敷くどころか、バラ色の明日を夢想しながら、逃げ道を断ってしまうのはゼレンスキーだった。コメディアンがリアルな悲劇を演じることは、喜劇なのか悲劇なのか。それを定義するのはゼレンスキー本人だ。ただし、定義する余裕があればの話だけれど。
6月12日付け、NATOのストルテンベルグ事務総長の発言主旨――。
「平和の実現は可能だ。だが、すべての和平合意には、領土を含む妥協、対価支払いが必要だ。唯一の問題は、どのような代償を払うつもりなのかだ。平和のためにどれだけの領土、独立、主権を犠牲にできるかだ。それを決めるのはウクライナだ」
繰り返してきたように、事実認識と価値判断を切り離して考えるべきだ。戦争が悪だろうと何だろうと、そういう価値判断に意味はない。最終的に「勝ち負け」「代価支払」という現実が横たわっている。