私は愚民である。ただ、愚民から脱出したいと思っている。いまもその脱出作業の最中にある。だから、まず自分が愚民であることを認めることが大前提である。
愚民友の皆さん、愚民と言われたくないのなら問いたい――あなたたちは、賢民であろうか。もしそうでないのなら、「愚民と呼ばれたくない」と拒むその感情こそ、愚民の証明である。ソクラテスの「無知の知」を持たず、愚民であることを認めず、愚民層に安住する者こそ、真正・永久愚民である。
愚民からの完全脱出は不可能かもしれない。だが、脱出を試みる意志と行動こそが、愚民性を打ち破る唯一の行為である。その意志を持つか否か――そこに、真正・永久愚民との根本的な差がある。
「愚民」という言葉を侮辱と捉えるのなら、キリスト教の「原罪」もまた、全人類への最大級の侮辱ということになる。なぜなら、原罪とは人間が生まれながらにして欠陥を抱えるという思想であり、それを信仰の出発点とする以上、信者はみな「罪人」であることを前提にしている。
だが、誰もそれを「侮辱」とは呼ばない。むしろ、「罪を認め、赦しを求める」ことが信仰の証明であり、そこにこそ救いがあるとされている。つまり、原罪論は「侮辱」ではなく「自覚の神学」である。愚民論も同じである。人間の愚かさを暴くことは、罵倒ではなく啓蒙の第一歩である。愚かさを認めない社会は、自省なき信仰と同じで、形だけの正義を信じ、腐敗を見抜けぬ。
「愚民」という語に過剰反応するのは、まさにこの「原罪を忘れた信仰」の構造を繰り返している。彼らは「人間は尊厳ある存在だ」と唱えながら、その尊厳がどれほど脆く、愚かさと隣り合わせであるかを直視しない。
人間の愚かさを指摘することは、人間を侮辱することではない。むしろ、人間にまだ理性の余地があると信じる行為である。ゆえに、「愚民論」とは軽蔑の思想ではなく、「希望の最終形」である。愚かさを認める勇気が、救いの第一歩だからだ。





