● 「売国」という思考停止のレトリック
「売国」という言葉ほど、思考停止を象徴するレトリックも珍しい。そもそも売国とは何か。売る主体と対象、買う側という三要素がそろって初めて成立する概念であるにもかかわらず、現実の政治言論ではその構造がほとんど無視され、「自分の気に入らない相手」に貼る道徳的レッテルとして機能しているにすぎない。外資誘致をすれば売国、外交で譲歩すれば売国、歴史認識で反省すれば売国。これらはすべて実体を欠いた情緒的反応であり、国家や政策の合理的検証とは何の関係もない。
「売る」とは本来、取引であり、取引とは価値の再定義である。自らの資産や制度、文化を他者との関係の中で更新し続ける営みこそが、国家の成熟の証である。それを一律に非道徳的と断じるのは、経済も外交も知らぬ素人の発想だ。
仮に、誰か一人の「売り」で国家が滅ぶというなら、それは裏切りの問題ではなく、制度設計の脆弱性そのものである。強い国家とは、裏切り者が出ても崩れず、誤った指導者が出ても修正でき、外圧にも耐え抜く国家である。こうした「制度的免疫」を欠き、一人の行為で瓦解する国家は、もはや国家ではなく情緒共同体にすぎない。
「売国」という言葉の最も有害な点は、行為を道徳で封じ、思考を停止させることである。善悪の二元論に逃げ込むことで、政策的最適化の思考は死ぬ。国家は数理でも戦略でもなく、感情とアイデンティティで動く群衆政治へと堕ちていく。すなわち「売国」というレッテル政治こそが、国家理性を蝕む最大の売国行為なのである。
売国は罪ではない。交換・譲渡・更新を恐れず、市場と世界の中で価値を再定義し続ける国家こそ成熟国家である。逆に、他者を「売国奴」と罵りながら自国の硬直を正当化する国家こそ、真の意味で衰退している。売国が可能な国は、まだ救われる。売るものすらなくなった国こそ、滅びの淵に立っている。
● 「反中」と「親中」のあいだにある財布の真実
口では「愛国」を叫びながら、財布では「売国」を繰り返している――これこそ、この国に蔓延する偽善の典型である。売国とは理念の裏切りではなく、現実と倫理の乖離のことである。
中国を罵倒しながら、その中国の製造力と物流網なしでは一日も生きられない者たちが、最も滑稽で、最も醜悪である。自らの生活の七割を中国に依存しながら「売国奴は誰だ」と叫ぶのは、もはや喜劇に等しい。思想で中国を否定しながら、経済で中国を肯定している。頭は反中、財布は親中――これを「選択的愛国主義」と呼ぶなら上品すぎる。実態は「依存的偽善主義」である。
真に愛国を名乗りたいなら、まずは生活のサプライチェーンから中国を排除してみろ。スマートフォンを捨て、電気を消し、衣服を脱ぎ、スーパーの棚から七割を撤去してみろ。それでも「中国抜きの生活」を貫けるなら、少なくとも言葉に誠実さはある。
愛国とは怒鳴ることではない。依存を自覚し、構造を変え、数理と現実で独立を築くことだ。罵声を上げる前に、まずボイコットから始めろ。それが唯一、筋の通った愛国である。
● 「売春婦が買春客を罵倒する」国の倒錯
売春婦が買春客を「道徳の崩壊」と罵倒する。
その瞬間、彼女は自らの存在を支える市場原理と契約関係を否定している。すなわち、自分の収入を生み出している構造を罰しているのである。これは、依存しながら憎むという矛盾、すなわち「寄生的道徳主義」の典型だ。
同じ構造が、「中国を憎みながら中国製品に依存する人々」にも見られる。日常的に中国の労働と技術の成果を享受しながら、その手を「汚れている」と罵る。つまり、「自分の飯を作ってくれる手を罵倒して感謝もしない」態度である。この倒錯は倫理ではなく論理の破綻である。
売春婦が買春客を罵倒する構図の本質は、「自己否定を通じた自己正当化」である。立場が不安定であるほど、他者を糾弾することで一時的な高みに逃避する。しかしその道徳的快感は安物のドラッグにすぎない。現実の依存構造を断ち切らない限り、彼女もまた、買春客なしには生きられない。
問題は「道徳の崩壊」ではなく、「道徳を免罪符として使う知的誠実さの崩壊」である。「売春婦が買春客を罵倒する」という比喩は、まさにこの国の“愛国的倒錯”を象徴する。依存の事実を直視せず、罵倒でごまかす。恥を知らぬのは、身体ではなく頭の方だ。
● 真の独立とは、依存を自覚する知性である
「売国」を罵る者ほど、実はもっとも深く依存している。道徳の名のもとに現実を否認する国家は、理性ではなく感情で動く。真の愛国とは、他者を罵ることではなく、依存を自覚し、その構造を変革する勇気である。国家も個人も、恥を知るところからしか成熟は始まらない。




