世の中の本質、なぜ幸せになれないのか?

 私たち生身の人間は、基本的に自分が「善」だという前提をもってそれを基準に、他人や世界の「善・悪」を判断している。

 その「自己善」は、自己利益、教育、環境、体験その他心理的要因に影響されて決まるわけだ。その「自己善」に反するものは基本的に「悪」少なくとも「非善」と認識される。

 一方では、私たちは他人の「自己善」にあまり興味を示さない。特に「悪」と規定された他人の「自己善」にはほぼ無関心だ。それが同志の集団となると、その無関心さが共感や共鳴によってエスカレートし、批判ないし闘争に変わる。

 共通の「自己善」をもつ人たち(共同体)は大合唱しより力強く対立する相手側つまり「悪」側の相手を糾弾する。そんななかで、1人でも(Aさんとしよう)、「ちょっと待ってよ、その相手の『自己善』とは何か」と問いかけただけで、身内(同一陣営)に「あなたはどっちの味方だ」と糾弾され、排斥され、Aさんは自己利益を失う。

 これが「同調圧力」のメカニズムだ。同調圧力に抗うと自己利益を喪失する。その自己利益を保全するために、同調圧力を受け入れ、それに従うこと自体が「自己善」に加わる。

 私は50代に入ってようやく少しずつ、いろんな人の「自己善」に興味を持ち始めた(仕事上のニーズでもあるが)。ついにある認識に到達した――世の中、「善・悪」はない。あるのは「賢・愚」のみだ。

 私は法律の勉強を始めた頃、まず、「悪法も法なり」と教えられた。あとから気づいたことだが、実はその「悪」とは、必ずしも特定の当事者にとっての悪ではない。「愚」なのだ。法律はその目的達成ができれば、「善法」といい、達成できなければ、「愚法」になる。

 さらに掘り下げると、立法趣旨(目的)に据えられている利益とは、国益、党益、集団益、個人益といろいろある。複数の「自己善」が交差ないし対立しているのだ。

 だから、国益が損なわれても他の利益に適った法律や政策は、愚法でありながら、善法であるわけだ。民主主義はよく「衆愚」と言われるのはそのためだ。少数の特定利益集団(政治家やそのスポンサー)がこれを利用しているだけだ。

 しかし、この本質を看破できない愚民たちは逆に、種々の問題や不幸を政治家のせいにして政治家のことを「愚」と批判する。いやいや、違う。政治家たちは決して愚ではない、愚を利用している賢と言っても過言ではない。民主主義の「選良」とはそういうことだ。

 期待しながら投票しても、いつまで経っても、世の中は変わらない。投票率が低いせいではない。投票率が100%でも、変わらない。もっと悪化するかもしれない。民主主義と独裁専制の違いは、短期交替と長期交替の違いだけ。ある意味で、あくまでもある意味で、短期交替のほうがより筋悪な側面もある。

 いろんな人の「自己善」が見えてくると、この世の中の本質も自ずと理解できるようになる。短い人生、人間は一人ひとりそれぞれ異なる「自己善」を追求し、それが実現できるかどうか、実現の度合いは「賢・愚」にかかっている。

 そこで必ず反論がやってくる。「悪は悪だ、容認できない」と。じゃ、その悪を善に変えるか、消滅したらいい。私にはとてもその力がないので、諦めている。「善・悪」は「価値判断」である。「賢・愚」は「事実認識」の能力だ。

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