中国の「ゼロコロナ」政策と日本人の嫌中心情

 二人目を産ませるために、「三人っ子」政策。
 ゼロの桁を減らすために、「ゼロコロナ」政策。

 この本質を読めない人たちは、中国の「ゼロコロナ」政策を批判し続けている。私が繰り返しているように、「ゼロコロナ」政策は、「ゼロ」にするためでなく、「ゼロの桁」を減らすための政策だ。

 経営者ならみんな知っているはずだが、企業の人事考課では通常、従業員にやや高めあるいは明らかに達成できないほど高い目標設定をする。クリアできないことは百も承知だ。さもなければ、従業員はだらけてしまい、業績が低下し、最終的に会社が潰れかねない。

 13億人の国、ゼロを掲げてやっと今の状態なので、やらなかったら、とっくに医療崩壊になっていた。なんでも民主主義を唯一の基準として批判するものではない。逆に民主主義の諸外国は「ゼロコロナ」をやりたくてもなかなか実施すらできないから、酸っぱい葡萄の心理で言っていないか。

 私はどちらかというと中国(政治的に)嫌いだが、ただ正しいことは正しい。一辺倒の批判も賛美もしない。何でもイデオロギー的に立場を決めて物事を考えると、合理性が失われてしまう。

 「どちら側に立ってものを言うのか」、昨今立場の表明を迫る風潮が強まっている。バイデンの左翼政権が登場して以来、西側社会はどんどんおかしくなってきた。「どちら側」という「両側」を作り出すのは、左翼の特徴である。

 日本人の大多数が中国嫌いというが、では中国側に立たずに縁を切るべきだ。何よりもまず中国のサプライチェーンを切らなければならない。欧州はロシアと絶縁したいけれど、天然ガスだけはほしい。日本も同じ状況ではないだろうか。旦那を嫌いながらも離れたら餓死するので、離婚できない。というジレンマに陥っている。

 だから、「親中派」というのは、ある意味で表裏一体なだけだ。それに対して多くの日本人は、心が「反中」、財布が「親中」という状態である。いささかメンタル的に不健康のように見えるのだが、必ずしもそうではない。

 反中の合唱や同調は、一種の「心の癒し」、あるいは傷の舐め合いになっている。それはそれなりのストレス発散効用があるわけで、よしとしなければならない。

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