【世界経済評論IMPACT】精神の勝利と現実の摩耗、「民情」の暴走と国家の脆弱性

● 1.65倍の膨張という異常事態

 自民党が191議席から316議席へと、わずか1年3か月で1.65倍に膨張した。この数字は、単なる「政権維持」や「勝利」という言葉では片付けられない。先進民主主義国家において、平時にこれほどの短期間で議席が激増する例は世界の選挙史を見渡しても極めて稀である。通常、このような劇的な反転は、大恐慌や敗戦、あるいは既存体制の完全な崩壊といった、国家存亡の危機を前提とするものである。

 しかし、今の日本において、決定的な経済的改善や劇的な実績評価があったわけではない。むしろ、国民の生活実感は物価高と賃金停滞によって冷え込んでいる。にもかかわらず起きたこの「圧勝」は、政策の中身によるものではなく、心理的・象徴的な要因、すなわち「高揚感の動員」と「敵対軸の単純化」によって説明されるべき現象である。

 現在の有権者が最優先しているのは、金ではない。国家観であり、対中強硬というイデオロギーである。これは政治家に踊らされた結果というより、国民自身が能動的に選び取った優先順位だ。いわば「民意」を超えた「民情」の噴出である。

● 逆転する下部構造:経済的欠乏と精神的充足

 マルクス理論によれば、経済という「下部構造」が、思想や国家観といった「上部構造」を規定するとされる。つまり、生活が苦しくなれば、人々はより生存に直結する経済政策を求めるはずである。しかし、現在の日本ではその順序が逆転している。

① 「貧・苦」と「困・痛」の猶予期間

 日本人が「貧しくても精神優先」という選択をできているのは、社会がまだ決定的な崩壊に至っていないからである。ここで「貧」と「困」、「苦」と「痛」を定義し直す必要がある。

 「貧」と「困」: 現在の日本人は「貧(相対的な欠乏)」ではあるが、「困(正常な生存に支障が生じる窮状)」には至っていない。
 「苦」と「痛」: 不快や不安という「苦」は感じているが、生活や身体が破壊される「痛」には至っていない。

 貯蓄、社会保障、家族、そして「まだ大丈夫だろう」という集団的前提が、落下の衝撃を和らげている。この段階において、人々は合理的な改革よりも「物語」を求める。精神的立場を選択できている事実は、皮肉にも、まだ日本社会に「余裕」が残っていることの証左でもある。

② 承認欲求の政治学

 生存そのものが争点にならない社会では、政治は「承認欲求」を満たすための舞台へと変質する。「自分は正しい側にいるのか」という確認こそが、最大の報酬となる。 対外強硬姿勢や「大和魂」の強調は、この要求に即効性のある答えを与える。政策の具体的な成果を待つ必要はなく、「屈していない」「覚悟を持っている」という自己像を瞬時に手に入れられるからだ。これは一種の「自己麻酔」であり、耐性がつけばより強い言葉、より明確な敵を求めるようになる。その間、直視されない経済的な「貧」と「苦」は、麻酔の下で着実に蓄積されていく。

● 現実という名の「痛」:サプライチェーンの罠

 精神の高揚では解決できない現実が、すでに足元を侵食している。日本の生活基盤全体が、中国依存という構造的前提の上に成り立っているという事実である。

① 静かなる供給制限

 中国は正面から供給を止めるような派手なアクションは取らない。環境規制、通関検査、許認可の厳格化といった「合法的な理由」を積み重ね、供給を細くしていく。その結果、納期が読めなくなり、在庫が薄くなり、価格が上がる。 レアアースの事例が示す通り、安保を理由とした依存脱却は莫大なコストを伴い、最終的には製品価格や電気代の上昇として国民に転嫁される。国家としては「依存脱却」であっても、生活者にとっては「静かな物価上昇」という名の「痛」である。

② 最後に波及する医薬品

 この連鎖は、エネルギー、部材、食品を経て、最後に「医薬品」へと到達する。抗生物質の原薬を中国に依存している現状は、国家の急所を握られているに等しい。医薬品は代替が効かず、需要を止められない。大和魂は精神的な痛みを耐えさせるかもしれないが、物理的な感染症を治すことはできない。高揚感が切れたとき、抗生物質が棚にないという現実に直面すれば、落差に耐えきれず国家全体が崩壊するリスクを孕んでいる。

● 圧勝モデルの分析:ブレーキなき民主主義の恐怖

 高市自民党の圧勝は、日本近代史における「大勝の三類型」の中で最も危険な型に分類される。

 東條英機(独走型): 自らの意思でブレーキを外し、アクセルを踏み続けた。責任は本人に帰属した。
 小泉純一郎(制御型): 熱狂を道具として使い、最後は自らブレーキを踏んだ。止める力を持っていた。
 高市早苗(被動型): 群衆の熱狂の「道具」となり、ブレーキを外され、その熱狂に縛られている。止める意思はあっても、止める自由も力もない。

 独裁体制では独裁者にブレーキをかけるのは難しいが大衆は制御できる。対して民主主義では、政治家を止めることはできても、暴走する大衆にブレーキをかけることは不可能に近い。 現在、国民の側が「戦時に近い意味付け」と「準戦時の空気」を欲している。毅然、覚悟、誇り、我慢といった言葉が、生活の重さを一時的に忘れさせる。しかし、当事者が「戦争ごっこ」のつもりでも、外から見ればそれは本物に見える。中国はその「演技」を逆手に取り、自国防衛という名目でサプライチェーンを遮断する大義名分を得るだろう。

● 国際記号としての右傾化と「幕下の横綱」

 アジアの視点から見れば、日本はすでに「極右国家」というイメージで固定され始めている。高市政権が国内向けの高揚を優先し、外に向けた火消しを行わない沈黙が、その像を強化している。今回の選挙で、中道を名乗る党が日本人自身の手によって壊滅させられた事実は重い。日本は本気で極右化したわけではないかもしれないが、国際社会というリングにおいて、極右として振る舞う言語や演出を自ら選択してしまった。 今の日本は、幕下の力士が観客の熱狂によって「横綱」の番付を与えられたような状態である。実体としての経済力や軍事力が伴わないまま、記号としての「右傾化」だけが実体化している。華人社会では過去の記憶がこの記号を増幅させ、像が実体を規定し始めている。

● 二日酔いの後に突きつけられる選択

 高市政権は、対象の二日酔いが覚めたころ、極めて困難な三択を迫られることになる。

 第一の道(表裏の使い分け): 表で強硬な物語を維持しつつ、裏で妥協を進める「裏切り」の現実路線。
 第二の道(正面突破): 強硬姿勢のまま理性的な統治を試みる。しかし、熱狂は連続的な刺激を求めるため、成功確率は極めて低い。
 第三の道(高揚の優先): 支持者の期待に応え続け、先鋭化し続ける。これは国家を破滅へ導く最も危険な道である。

 結局のところ、高市氏が解に近づくには「支持者が求めた高市像」を否定するしかない。生活が改善されないまま熱狂が醒めれば、民情は一気に反転するだろう。 「経済よりも大和魂」という選択は、抗生物質が棚にある間だけ許される贅沢な遊びである。しかし、供給が途絶える直前まで、人は「精神で耐えられる」と信じ続ける。

● 補論:日本型ポピュリズムの深層と「民情」の変質

 なぜ今、日本人が「経済」を捨てて「精神」に走ったのか。その背景には、長年にわたる調整型政治への飽和がある。国家の財政が傾き、分配するパイが枯渇した今、政治が国民に提供できる唯一の資源は「意味」と「誇り」になってしまったのである。

 現代日本において、あえて厳しい言葉を支持することは、ある種の「マゾリスティックな快感」を伴う。「耐えている自分」という物語は、停滞する日常に劇的な意味を与える。サプライチェーンの摩耗という構造的問題を「敵に対する覚悟」という一言でパッケージ化し、精神的に処理可能なものに変換する。これが自己麻酔のプロセスである。

 SNS等のデジタル空間もこの傾向に拍車をかけている。強硬な発言を支持することは、即座にコミュニティからの承認を得る手段となる。政治家側もアルゴリズムに適応し、複雑な調整よりも「刺さる言葉」を優先する。その結果、政策の実効性よりも「どちらの側に立っているか」という旗色の鮮明さだけが競われることになった。

 中国側の「合法的な締め付け」が招く真の痛みは決して誇張ではない。かつての戦争は火薬で戦われたが、現代の戦争は「不確実性」と「コスト」で戦われる。日本国内が高揚感に酔いしれている間に、実体経済の毛細血管が一本ずつ切られていく。 精神を主燃料とする政治は、燃費が極めて悪い。より強い刺激を与え続けなければ、大衆はすぐに冷酷なまでに「生活の苦しさ」に目を向け始める。「誇りは手に入れたが、病院には薬がなく、食卓には高価な輸入品しかない」という現実に直面したとき、熱狂的な支持者は、最も恐ろしい「裏切られた支持者」へと変貌する。

● 結びに代えて

 本稿は、現在の日本が陥っている「精神優位の政治」という幻想に警鐘を鳴らすものである。 高市自民党の圧勝は、日本人が自ら選んだ「誇りの対価」である。しかし、その支払いはまだ始まったばかりだ。 政治家は群衆の鏡である。高市氏が「ブレーキなき暴走」を演じるのか、それとも熱狂を裏切って「現実」に舵を切るのか。その選択すらも、彼女個人の意思を超えた「民情」の圧力に晒されている。

 今の日本に必要なのは、勇ましい叫びではなく、冷徹な生存戦略である。精神論でサプライチェーンは維持できず、大和魂で病は治らない。我々が「物語」という麻酔を解き、再び「貧・苦」という現実と対峙できるか。それとも、すべてが「困・痛」へと反転するまで、精神の勝利を叫び続けるのか。 その答えは、もはや政治家の言葉の中ではなく、国民一人一人の「二日酔い」の深度にかかっている。

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