写真は2008年、私がテレビや新聞に出てはしゃいでいた頃のものだ。カメラ、マイク、照明――全部が「自分を照らしてくれる機械」に見えていた。若いころは、メディア取材が楽しくて仕方ない。紙面に載れば即座にSNSで拡散し、放送されれば知人に送りまくる。今振り返れば、私は典型的な自己承認欲の塊だった。

だが、五十代後半に差しかかった頃、その欲望が不思議なほど減退した。なぜか? 別に悟ったわけでも、人格が向上したわけでもない。承認がいらなくなったわけでもない。ただ、承認という燃料の正体が見えてしまったのである。
人間は、他者の拍手がないと動けない時期がある。だが拍手依存は、ある地点で必ず効率が落ちる。拍手の質は低下し、数は減り、刺激は鈍化する。つまり、承認は中毒性の弱い麻薬で、年齢と経験を重ねるほど効かなくなる。さらに厄介なのは、効かないくせに依存度だけは高いという構造だ。
逆に、自己承認の依存を一つずつ切り落とすほど、人間は静かに自走に入り始める。私自身、その途中にいる。昔ほど褒められたいとも思わず、取材依頼が来ても嬉しくもない。
結局のところ、承認から自由になった人間だけが、「見られ方」という呪縛から抜け出す。評価されるかどうか、褒められるかどうか、炎上するかどうか――そんな外部の視線を燃料にしていた人生が突然どうでもよくなる。
すると、人間はようやく自発的に動き始める。自由に考え、自由に話し、自由に書き、読む側・見る側がどう思うかなど、取るに足らない副産物に落ちていく。
これこそ、人生最上級の自由である。




