民主主義が独裁政治に転落する、原因はここにある

 民主主義が独裁政治に転落する。2400年前のギリシャの哲学者プラトンの予言が現実になりつつある。

 プラトンはその名著『国家』の中で、民主主義が独裁に堕落する道筋を克明に示した。それは民衆の「自由への過度の欲求」だ。「自由」を善に掲げる民主制国家では、人間の欲求が無限に増大し、その風潮が極みに至ると、国家は無秩序状態に陥り、本当の国益をも見失う。

 プラトン説を少し展開してみよう。

 「自由」については、程よい量的な「過度の欲求」があっても非難されるべきではない。ただし、自由には責任(コストやリスク)が正比例に伴う。責任が置き去りにされた自由のエスカレートは、民主主義の変質と堕落を招来する。この点を民衆の大多数が弁えていれば、民主主義はうまく行く。

 しかし、民主制国家の政治家たちは決して(民衆の)「責任」を語らず、ただひたすら耳障りの良い「自由」を叫び続け、「不自由」(例:差別)を意図的に作り出してまで自由への欲求を煽り続ける。責任など口にしたら当選すらできない。当選しても失言で失脚しかねない。「自己責任」もその好例。「自己責任」への拒否は、自分にも無責任だということだ。そういう民衆が大多数である国家はうまくいくはずがない。

 民主主義堕落の原因は、民衆の「自由への過度の欲求」だ。これはプラトンの予言通りになった。大方の民衆は哲学に無興味、責任に無関心で、ただひたすら欲求の奴隷だからだ。

 私は民主制国家の民の一員として、民主制反対・独裁専制支持という立場は取れないし、取るつもりもない。ただし、民主主義の独裁化を牽制する独裁政治のその「牽制機能」には賛成だ。

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