私は投票しない、国家を変えないという自由

 私は投票しない。そして寒風の中、ポカンと口を開けて政治家の街宣を聞き入る日本人を、私は横目で見る。政治家の街宣に立ち止まったり、耳を貸したりすることは一度もない。そもそも私は、民主主義の投票制度そのものを拒否している。制度として合理性を感じないからだ。だから投票もしない。

 思い出すのは、ニーバーの祈りである。

 変えられるものを変える勇気。
 変えられないものを受け入れる冷静さ。
 そして、その二つを識別する知恵。

 これは信仰の言葉ではない。意思決定の原理だ。人生資源の配分ルールと言ってもいい。

 私はかつて、会社を変えようとした。だが、変えられないと悟った。そこで会社を変えることを諦め、自分を変えることを選んだ。脱サラである。結果として、26年後、経営コンサルタントという立場で、ようやく顧客企業を変えられる側に回った。順序を間違えなかっただけの話だ。

 だから言う。国家や社会は変えられない。少なくとも、個人が人生を賭けてどうにかなる対象ではない。変えられないものに情熱やエネルギー、そして何よりも時間コストを投下するのは非効率だ。人間は百年も生きられない。限られた時間を、統制不能な巨大システムに委ねるのは、合理的とは言えない。

 「投票しないなら文句を言うな」と言われることがあるが、私は一人称として文句を言っていない。そもそも日本に生活していない。米価がいくらか、消費税が何%かは、私や我が家の生活変数に入っていない。私は当事者ではない。三人称として、日本という社会を観測しているだけだ。人間と社会の研究対象として、眺めている。

 愛国心はある。だが、憂国もしないし、救国もしない。国家は愛する対象であっても、操作対象ではない。救えもしないものを、救うふりで消費しない。それだけだ。

 他国についても同じ姿勢で評論している。中国を評価すれば、すぐに「親中」とレッテルを貼られるが、まったく的外れだ。私はどの国にも与しない。中国を理想国家だと思ったこともない。ただ、統治の帝王学がどのように運用されているかを、技術として参照しているだけだ。統治を道徳でなく、運用として見る。好き嫌いの話ではない。

 民主主義も同じだ。期待していない。判断コストを個人に負わせ、結果責任を分散し、しかし結果だけは人生に強制適用する。その制度設計に、私は参加しないと決めただけだ。

 日本が滅びても、我が生きる。これは挑発でも冷笑でもない。日本を取り戻すなどの妄想よりも、自分を国家から取り戻すという、現実的立脚点の宣言だ。

 変えられるものだけを変える。
 変えられないものには、人生を賭けない。
 その識別こそが、自由の正体だ。
 そして、変えられないものを切り捨てるところから人生の旅が始まる。

 私は今日も、寒風の中で立ち止まらない。南国の太陽を満喫している。

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