前髪で目線を切る国、ツーブロック社会日本という完成形

 最近の日本人の髪型は、もはや流行ではない。男女を問わず、横と後ろを短く刈り、頭頂部だけを長く残し、その髪を前に垂らして額と目元を隠す。ツーブロック、マッシュ系。街を歩けば、同じ輪郭が無限に複製されている。

 はっきり言う。これは装飾ではない。目線遮断装置だ。

 まず誤解を切っておく。この髪型は日本人だけのものではない。韓国では、前髪は魅せるための演出だ。視線を集め、評価され、商品価値を上げるための装備である。中国の都市部では、前髪は攻めの武装だ。目立つ、勝つ、上に行く。そのための戦闘服であって、防御ではない。ところが日本では、意味が完全に反転する。前髪は視線を集めるためではなく、切るためにある。

 人間のコミュニケーションで、最も決定的なのは「目が合う瞬間」だ。そこから評価が始まり、関与が生まれ、責任が発生する。だから、日本人はそこを避ける。前髪で目元を隠し、視線の交差を未然に断つ。これは恥ではない。覚悟を出さないという選択だ。

 ここで重要なのは、「視界」ではなく「目線」である。実際、この髪型は不便だ。前髪が揺れる。目に入る。汗で張りつく。視野も狭まる。運転にも仕事にも向かない。合理性だけで見れば、明らかに劣化している。それでも切らない。なぜか。見えにくくなる不便さより、見られることの不安のほうが大きいからだ。

 目線を遮るとは、社会的センサーを落とすことでもある。相手の感情、空気、緊張、危険信号。すべて目から入る。それを自ら弱めるというのは、「関与しない代わりに、察知もしない」という生き方だ。この髪型が「良い」とされる理由は単純だ。今の日本社会では、目立たないこと、叩かれないこと、責任を負わないことが、最も合理的な戦略だからである。

 横を刈って上を残せば、誰でもそれなりになる。尖らない。外さない。だが刺さらない。量産型60点。美容師の腕も、本人の思想も、ほとんど問われない。性別も年齢も価値観も消える。これは多様性ではない。無色化だ。

 この前髪は、こう語っている。「見ないので、見られないでください」「関わらないので、判断しないでください」。誤解してはいけない。これは個人の弱さではない。社会の要請だ。顔を出せば責任を取らされ、意見を言えば燃やされる。ならば、最適解は目線を切ることになる。合理的で、そして不自由だ。

 だから、この前髪はしばらく上がらない。社会が「目を合わせても壊されない場所」になるまでは。最後に一言だけ。目線を遮る社会では、世界は安全になるが、判断力は確実に鈍る。前髪は、その代償を静かに物語っている。

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