本当の「多様性」とは?子供を海外に送り出す際の重要ポイント

 日本の「同調社会」から逃れて、子供を「多様性」の海外に送り出す日本人家庭が急増している。私も繰り返し日本脱出を呼び掛けている1人である。ただ、そもそも真の「多様性」とは何か、前提をはっきりしないといけない。

● 多様性と異質性の違い

 「多様性」とは何か。「ある集団の中に異なる特徴・特性を持つ人がともに存在すること」で、人種や国籍、性別、年齢、障がいの有無、宗教、性的指向、価値観、キャリア、経験、職歴、働き方などが含まれている、と一般的に理解されている。いずれも、表面の「現象」にすぎない。

 マレーシアは、多民族国家で多様性の象徴ともされている。その多様性は、現地で実際にどのように扱われているのか?私の限られた観察や調査から、「多様性の存在を認めながらも、それを受け入れない」という結果が判明した。「認める」「受け入れる」とはまったく別問題だから。

 なぜなら、多様性とは、個人ベースにおいて、ただの「異質性」にすぎない。その異質性を受け入れると、本能的抵抗が生じ、生活や仕事にも取引コストが増え、支障をきたす。だから、「多様性」の存在を社交辞令的に認めながらも、実質的な「異質性」としては受け入れない。結果的に、「棲み分け」が平和共存の最善策となる。

 マレーシアはそういう社会である。マハティール氏は、華人とマレー人の異質性(競争耐性)については明言し、「マレー人は華人と同じように競争できない」といった旨の発言を繰り返してきた。言い換えれば、市場競争原理という「見えざる手」があって基準は後進組でなく、自ずと先進組に設定されるのである。だからこそ、人為的にマレー人救済政策という「見える手」が必要なわけだ。

 これが、「棲み分け」の背景である。

● 民主主義も独裁専制もみんな多様性

 「多様性」の話にもどろう。俯瞰的な「多様性」であっても、スポット的な「異質性」になる。パースペクティブを変えれば、風景も違ってくる。そこで、異質性ないし多様性を拒否することそれ自体も、多様性の一種ではなかろうか。ならば、多様性を拒否する多様性を、多様性が認めるのだろうか。

 具体論に置き換えてみると、民主主義は、多様性を認める社会制度でありながら、多様性の一種としての「反民主主義」(独裁専制を含む)を包摂的に認めるのか、という問いが浮上する。そこですぐさまに、「民主主義は唯一の絶対善」というポリコレ棒を振り回したら、それはつまり多様性の存在に対する否定にほかならない。

 民主主義と独裁専制は、互いに異質的な存在ではあるが、パースペクティブを変えれば、単なる2つの多様性にすぎない。故に、片方がもう片方を滅ぼすのでなく、棲み分けすればいい。それだけのことだ。

 最近の民主主義下のいわゆるリベラル的な多様性は、どうもLGBTQという性的指向に向けられている。これはもっとも可視的な「現象」であり、しかも差別意識に基づく闘争本能を呼び起こしやすい分野でもある。結果的に市民の分断や闘争から利益を得ているのは「賢い」政治家、既得権益層にほかならない。それが「現象」の裏に隠された「本質」なのだ。

● 海外で学ぶ「多様性」とは?

 私のこのような捉え方も、多様性の一種にすぎない。その存在を認めてくれればよく(抹殺しないこと)、人によっては受け入れられないのも多様性であり、根本的な価値観やイデオロギーの異質性が認められる以上、棲み分けも健全な選択肢である。それは真の「多様性」ではないだろうか。

 日本の「同調社会」は、文化的起源や出自を考えれば、その存在にはそれなりの意義や価値が伴うことがわかる。ただ、現今の世界に照らして適合性の問題が生じているのも事実だ。価値判断事実認識を区分したうえで、海外を選ぶというのも多様性の一種といえる。

 ただ、上述のように、「多様化」そのものの定義や運用については要注意である。表向きの多様化現象よりも、日本社会で得にくい論理的思考法を子供に身につけてもらうことに注力してほしい。

 さらに、要注意事項は、親自身の問題である。日本社会に長く暮らしていると、不覚にも非論理的思考(固定観念や同調本能)の習慣が身についている人がほとんどである。そこで論理的思考法を身につけようとする子供との「異質性」が目立つ。その異質性こそが、親が期待していた子供の「多様性」学習の成果ではないだろうか。「芽を潰さないでくださいね」と言われても、それは簡単なことではない。親の自己否定につながるからだ。

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