● 言葉の時点で結論は出ている
ロシアはウクライナに「侵攻」し、アメリカはベネズエラを「攻撃」した。西側報道に触れた瞬間、この用語の非対称性だけで、結論はすでに出ている。侵攻は悪であり、攻撃はやむを得ない。法の解釈も、正義の評価も、記事を読む前にほぼ確定している。
ここで問題にしたいのは、どちらが正しいかではない。なぜ同型の行為が、異なる言語で語られるのかである。主権国家への武力行使、他国の政治秩序への介入、軍事力による現状変更という点で、行為の骨格は大きく変わらない。それにもかかわらず、片方は「侵略者」、もう片方は「秩序の維持者」として語られる。この差を生むのは、行為そのものではなく、語る側の位置である。
● 国際法は止める装置ではなく、説明言語である
国際法は不要ではない。無いよりあった方がましである。しかし、国際法は国内法のような強制執行装置を持たない。上告もなければ、警察権もない。最終的な解釈権は、力を持つ者の側に寄る。現実には、国際法は行為を止める装置ではなく、行為を説明するための言語として機能する。
にもかかわらず、われわれはしばしば国際法を「裁断の刃」として振り回す。違法だ、正義に反する、と叫ぶことで、世界を理解した気になる。しかしそれは分析ではない。安全な場所からの道徳消費である。決断もしない、結果責任も取らない立場から、裁判官を演じることほど、容易で幼稚な行為はない。
● 大国は同じ反射で動く
大国の行動原理は驚くほど似通っている。アメリカはキューバ危機で、目と鼻の先に敵の核が置かれる可能性に過剰反応した。中国は朝鮮戦争で、米軍が国境に迫った瞬間に参戦した。アメリカはベネズエラを「裏庭」と見なし、脅威を固定化させなかった。そうであるなら、ロシアがNATO東方拡張を脅威と感じ、反応したことも、行動原理としては同型である。これは正当化ではない。原因として成立するという話である。
国際法は、こうした力の反射を裁き切れない。その限界を承知したうえで使うなら意味はある。しかし、国際法を万能の審級であるかのように扱い、すべてを善悪で断じる態度は、現実認識を鈍らせる。法の言語が現実を説明するのではなく、現実が法の言語を選別しているからである。
● なぜ北京は爆撃されないのか
マキアヴェリズムの原点に立ち返れば、問うべきは正義ではない。人はどう動くか、権力は何に反応するか、恐怖と利益はどこで交差するかである。侵攻か攻撃かというラベルは、その後に貼られる物語の入口にすぎない。
もし「独裁政権を倒す作戦」が侵略に当たらないのなら、北京爆撃も論理上は正当化できる。では、なぜアメリカは北京を爆撃しないのか。理由は単純である。できないからである。
アメリカにはカラカスを爆撃する力がある。しかし、北京に手を出す力はない。正確に言えば、手を出した場合に支払うコストが、許容範囲をはるかに超える。核抑止、経済相互依存、同盟網の連鎖、世界市場への致命的影響。これらが現実のブレーキとして働いている。
侵攻か攻撃か、正義か不正義かは、すべて事後的に貼られる説明にすぎない。実際に行為を分けているのは、「できるか、できないか」「やっても生き残れるか、破滅するか」という冷酷な計算である。
● 裁く前に、見るという態度
全員が国際法の裁判官を気取った瞬間、世界は理解不能になる。残るのは陣営語だけである。法を知った上で、法を一段下げ、まず現実を見る。その態度こそが、いま最も必要とされている。
結論は明白である。世界を動かしているのは法でも正義でもない。力である。国際法を知らないから距離を取るのではない。知っているからこそ、振り回さない。それが、現実を直視するということである。





