結論から言おう。現代の富の不平等とは、資本主義の副作用でも市場の失敗でもない。国家の調整能力の劣化という政治の失敗だ。そしてその劣化の根本原因は、民主主義と資本主義の関係が逆転し、資本主義が民主主義の上位に立ってしまった点にある。
本来、両者は牽制し合うはずだった。民主主義は多数決に基づき政治的痛みの分配を行い、資本主義は市場の効率性を担保する。しかし現実には、巨富を築いたトップ層が政治制度を内部から食い破り、民主主義を「名ばかりの器」に変えてしまった。制度上は主権在民でも、実質的には「主権在富」である。
その象徴が、世界上位0.001%(わずか6万人弱)が人口下位50%の三倍の資産を握るという現実だ。平均資産は約10億ユーロ、下位半分は6500ユーロ。この差が縮まらないのは経済の複雑さのためではない。国家が痛みを配分する権限を失ったからだ。欧米と日本では、超富裕層が国境を越えて資産を移し、ロビー資金で政治を縛り、課税・規制を骨抜きにし、政治家を選別してきた。
民主主義の建前は「多数決」だが、制度を書き換えるのは資金・人脈・情報・メディアを握る少数者である。資本主義が民主主義を乗っ取るとは、政治の意思決定が選挙民ではなく資金提供者に傾く仕組みが固定化することだ。国家が刀を抜けなくなったのは、この構造的従属が原因である。
その結果、国家の本来の役割である「痛みの再配分」が不可能になった。富裕層への課税も、金融所得の把握も、資産課税も、すべて象徴的規模にとどまり、格差は制度に組み込まれ、自動的に拡大する。政治は票にならない政策を打てず、ポピュリズムに逃げ、制度はさらに弱体化する。偽右も偽左も大衆はSNSで怒りを発散し、政治家はそれに迎合し、資本は静かに制度の背骨を掴み続ける。民主主義は麻酔され、資本主義は無制限化された。
対照的なのが中国である。良し悪しの判断は脇に置くとして、ここには依然として国家の調整能力が存在する。共同富裕政策、テック企業への巨額罰金、不動産企業への債務処理圧力、富裕層の投機抑制、農村再配分――国家が痛みの割り当てを強制的に実行できる。資本にも財閥にも屈しにくい構造を維持しており、危機管理のための再配分が可能だ。
民主主義国家が「調整不能国家」と化したのとは対照的に、中国は「調整可能国家」を辛うじて維持している。
スティグリッツが「極端な不平等は必然ではない」と語るのは正しい。しかし正しいことと実行できることの間には、政治体制の構造差という深い溝が横たわる。欧米と日本では、資本主義が民主主義を上位から掌握し、国家が痛みを配分する機能を喪失した。中国では逆に、国家が資本主義を上位から制御している。
結局、現代の不平等とは、政治体制の善悪ではなく、国家の機能残存度の差だ。痛みを配分できる国家だけが長期的に持続する。痛みを配分できない国家は、格差・財政悪化・社会不信というスパイラルに沈む。それを生み出したのは、資本主義が民主主義を乗っ取ったという、あまりに冷酷で単純な事実である。





