人間の6つの自由、立花流の幸福論

 人間にとって、自由を手に入れることは、幸福の源泉である。思うに、人間には6つの自由がある――時間の自由、場所の自由、金銭の自由、言論の自由、思考の自由、そして愛の自由である。10年前に執筆した原稿には「5つの自由」しか書かれていなかったが、後日に6つ目の「愛の自由」が加えられた。

 時間の自由――。
 自分で支配できる時間をもつこと。これは必ずしも拘束される時間を否定するものではない。会社に出勤していても、やりがいがあり、好きな仕事ができれば、それでいい。逆に、起業して一見時間の支配権を手に入れたように見えても、結局より多くの金銭の自由を得るために時間の自由を犠牲にしているのでは、話にならない。時間の自由と金銭の自由は、しばしば衝突する。

 場所の自由――。
 行きたい場所にいつでも行け、住みたい場所に住めること。これもまた金銭の自由によってけん制される。基本的に仕事のある場所に住まなければ稼げない。となれば、旅の軍資金を失い、行きたい場所にも行けなくなる。私自身、住みたいマレーシアに移住するかどうかで長く迷った。マレーシアではまとまったコンサル案件を得るのが難しいとわかっていたからだ。最終的に「職住分離」に踏み切ったが、かなりのリスクを抱え込む決断だった。

 金銭の自由――。
 これはもう言うまでもない。ある程度の生活レベルを確保するためには、一定の資産と安定した収入という二つの要素が欠かせない。お金がすべてではないというが、お金がなければ困る。お金は人間の呼吸のようなものだ。呼吸のために生きているわけではないが、呼吸がなければ生きていけない。さらに言えば、金銭の自由は他の自由と互いにけん制し合い、影響し合っている。これを無視してはならない。

 言論の自由――。
 言いたいことを自由に言えること。だが、ここにも二つの不自由がある。まず受動的不自由。独裁国家の大富豪であっても、変なことを口にすれば人身の自由まで奪われる恐れがある。次に自主的不自由。人間関係や仕事上の関係で、特に上司や顧客などに言いたいことが言えない。言えば関係が崩れ、出世も商売も成り立たなくなり、最終的に金銭の自由を失うからだ。

 思考の自由――。
 思想の自由ではなく、思考の自由。これは究極の自由である。物事の本質を見抜き、自由な思考をもつこと。常識や固定観念に縛られず、問題の核心を見極め、自由獲得への障害を取り除いていく。この力こそが、あらゆる自由を支える根源的エネルギーである。思考の自由を得たとき、人間は真に自由の身となる。

 愛の自由――。
 そして最後に到達するのが、愛の自由である。これは他のすべての自由を貫く軸であり、同時にその頂点に位置する。愛されることではなく、愛することの自由。愛されることは受動であり、他者の意志に左右される。だが、愛することは能動であり、自己の自由に属する。見返りを求めず、損得を計算せず、ただ自らの意志として愛する。そこにはもはや依存も恐れもない。この愛は感情ではなく、存在の表現である。ゆえに、愛する者は孤独に見えて、実は最も自由な存在である。自由の究極は、他者からの解放ではなく、他者を赦し、愛することによって到達する。愛する自由――それは、思考の自由を超えた地点にある、精神の最終的解放である。

 私はこれら6つの自由のうち、まだ満点ではないが、時間・場所・金銭・言論の自由をおおむね手に入れ、思考の自由を追い求める途上にある。愛の自由には、なお遠い。しかし、これこそが人間として最後に残された最難関であり、最も崇高な自由だと確信している。

 自由は素晴らしい。しかし、それは高価だ。自由を得るには、必ず対価という犠牲が伴う。人生は複式簿記である。貸借平均の原理が働く。得るものと失うもの。借方と貸方の合計額は常に一致する。ある自由を得るために、別の自由を犠牲にする。人それぞれの価値観によって、その取捨選択が行われるのである。

 だが、それでもなお――自由を求める。それが人間であり、そして愛する自由に至ったとき、人は初めて完全に自由となる。

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