いつの間にか、名札の付け方が変わった。
かつては胸ポケットにクリップで留める方式が一般的だったが、今は紐で首から下げる形式が主流になっている。私はこの変化が、どうにも好きになれない。単なる懐古趣味ではない。そこには、人と組織の関係性が変質したことを示す、はっきりした理由がある。
胸ポケットの名札は「名乗る」装置だった。相手と向き合う場面で、必要に応じて名前を示す。そこには最低限の主体性があった。名札は身体の一部に近く、控えめで、関係の文脈の中で機能していた。名前とは本来、相互行為の中で意味を持つものだ。
一方、首掛け名札はまったく性質が違う。常時表示が前提で、遠目からでも識別でき、裏返すことすら許されない。外せば不審者扱いされる。これは「名乗る」のではなく、「識別される」ための装置だ。人のための名札ではなく、組織のためのタグである。
象徴的なのは、掛ける場所が「首」であることだ。首は古来、支配と服従、生殺与奪を象徴する部位だ。首輪、首級、喉元。そこにIDをぶら下げるという行為は、無意識のレベルで管理と従属を想起させる。犬の首輪が不快なのと同じ原理である。合理的だから、便利だからという理由では、この感覚は消えない。
実務的に見れば、首掛け名札は合理的だ。監視カメラとの親和性が高く、セキュリティゲートと連動しやすく、大人数の流動管理に向いている。イベント会場、工場、病院、オフィス。人を「関係」ではなく「点」として扱う場面では、確かに都合がいい。だが、それは同時に、人が管理対象へと転落したことを意味する。
この変化は、名札に限った話ではない。評価制度、KPI、ログ管理、行動履歴。現代の組織は、人を理解するよりも、識別し、分類し、追跡する方向へ進んでいる。首掛け名札は、その最も日常的で、最も露骨な象徴だ。皮肉なことに、こうした管理の高度化と並行して、「多様性」や「尊重」が声高に叫ばれる。しかし首から下がっているのは人格ではなく、IDだ。名前は本来、人を呼ぶためのものだったはずだが、今や番号に限りなく近づいている。
私が首掛け名札を嫌うのは、紐が邪魔だからでも、格好が悪いからでもない。人が人として扱われていた感触が、そこから消えてしまったからだ。違和感を覚えるうちは、まだ感覚が生きている。何も感じなくなったとき、人は静かに飼い慣らされている。
興味深い対比がある。中国の全国人民代表大会では、代表者の名札はいまも胸ポケットにクリップで留める方式が用いられている。中国は言うまでもなく高度な管理国家だ。顔認証、行動履歴、監視網。その点では日本の比ではない。にもかかわらず、国家権力の中枢に立つ者ほど、首掛け名札を用いない。
理由は単純だ。管理する側は、管理される記号を身に付けない。首から下げるIDは、流動する人間を識別・統制するための道具であり、本来は現場要員や被管理層に向けられた装置だ。権力の中枢にいる者は、管理の対象ではない。だから、管理を想起させる記号を自らの首に掛ける必要がない。
中国は、管理を隠すことに長けている。統制は徹底するが、その象徴を儀礼空間に持ち込まない。一方、日本は管理を否定しながら、管理の象徴を日常に垂れ下げる。この差は制度ではなく、権力と人間の距離感に対する感覚の差だ。
胸クリップ式は、主体が名を示す形式であり、首掛け式は、主体が識別される形式である。管理する側が前者を選び、管理される側に後者を与える。その非対称性に気づいたとき、名札は単なる備品ではなく、組織の思想を語り始める。





