年頭のご挨拶~≪特別レポート≫日中対立・氷河期時代の中国経営、安倍首相の靖国参拝に立脚して

 2014年、新年明けましておめでとうございます。

 クアラルンプールから、エリス・コンサルティングのお客様、関係者の皆様に、新年のご挨拶を申し上げます。この年末年始は皆様いかが過ごされたでしょうか。私はクアラルンプールの自宅で家族と愛犬と一緒にゆっくりリラックスして、初の南国での新年を迎えることができました。

 赤道直下、緑豊かで平和、物価が安く、経済成長の勢いを見せており、世界でもトップクラスの親日国家、このマレーシアで暮らしている私の仕事場は、中国である――。深刻な空気汚染、鈍化・停滞する経済成長、高騰する人件費、過酷な雇用環境、何といっても氷河期に突入する日中関係・・・。このコントラストがあまりにも強烈すぎて、私自身も目まぐるしく感じています。

 このコントラストを自ら求めてマレーシアに居を移し、職住分離に踏み切った最大な理由は実は、私自身のメンタルヘルス・マネジメント(心の健康管理)にありました。中国在住13年、日系企業の人事労務コンサルティングという仕事柄、もはや仕事の現場で人間の悪の側面、そして何よりもその悪を引き出し、増大を促す法制度の歪みを見せ付けられる機会があまりにも多すぎました。

 悪戦苦闘で心身ともに疲れ果てた企業経営者・幹部の皆様を目の当たりにし、私自身も知らず知らずに疲弊が進行していました。警戒心を持ちすぎて、何事も性悪説的に捉える傾向が顕著になりました。家族にも指摘されたとき、私はその深刻さを自覚しました。もはやこれ以上放置することはできませんでした。

 マレーシアに移住してからも、定例出張で毎月中国に1~2週間戻っていますが、職住を分離したお陰で、自分の心の平和をほぼ取り戻しました。それだけでなく、いろんな悪性事件の当事者はなぜ悪の側面が引き出されたのか、その思考回路や行動様式のメカニズムについてより客観的な深層分析ができました。自分のコンサルティングの進化にも、この平和なマレーシア生活が大きく寄与していることに感謝しています。また、引き続きこれをエンジョイしながら、よりよい仕事に取り組んでまいりたいと考えています。

 さて、毎年恒例の年末年始特別リポートを書くときがやってきました。何を書こうかと、1年間の出来事、書きたいことがあまりにも多くて、どう絞り込んで文脈を作っていくか何日も苦慮してきました。どうせ書くなら、もっともフレッシュなネタ、安倍首相の靖国神社参拝を取り上げ、日中の問題から企業経営やビジネスに展開していこうと、こう決めました

 いずれにしても、中国ビジネスは年々難しさが増す中、2014年はある意味で本格的なターニングポイントとなるでしょう。昨年の新年特別レポートは、「日中不友好・政冷経寒時代の中国経営」となっていましたが、今年は「日中対立・氷河期時代」と格上げさせていただきました。このような中国市場のサバイバルゲームを制し、そして勝ち抜き、皆様にとって成果溢れる、素晴らしき一年でありますよう心からお祈り申し上げます。

立花 聡
2014年元旦

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≪特別レポート≫日中対立・氷河期時代の中国経営、安倍首相の靖国参拝に立脚して

● 靖国神社と人民英雄記念碑、なぜ中国は日本を理解できないのか

 昨年末の12月26日に、安倍首相が念願の靖国神社参拝を果たした。これに対し、予想とおり中国は強く抗議し、従来通りの対抗姿勢を示した。

 安倍首相が靖国参拝について、習近平主席に直接説明する意思を示しているが、これに対し、中国外交部は12月30日の記者会見で、「(参拝は)正当な道理や正義に対する傲慢で狂気じみた挑戦だ。このような日本の指導者を中国人民は当然、歓迎しない。中国の指導者も、会うことはできない」と拒否する方針を示した。

 せいぜい、説明くらいは聞いてよと言いたいところだが、これも拒否し、一方的な先入観による否定に固執する中国側の姿勢。靖国問題に対する日中の溝は恒久的に埋まらないことを示唆している。

 なぜ、靖国神社の件で、中国は日本を理解できないのか。政治的な利用などいろいろと語られる中、まず本質的な「理解不能」が最大な原因になっている。その証として、中国に靖国神社に相当する慰霊施設がないことが挙げられる。

● 人民英雄記念碑で祀られている人たちとは?

 いや、北京・天安門広場に人民英雄記念碑があるのではないか。国の英霊が祀られる慰霊・記念施設といえば、まず人民英雄記念碑を想起する。そこで、質問――。人民英雄記念碑に祀られている「人民英雄」とは、どのような人たちか。

 人民英雄記念碑にこのような文言が刻み込まれている。

 「ここ3年来の人民解放戦争と人民革命によって犠牲になった人民の英雄達は永遠に不滅だ!ここ30年来の人民解放戦争と人民革命によって犠牲になった人民の英雄達は永遠に不滅だ!ここから1840年まで溯った時から内外の敵に反対し、民族の独立と人民の自由と幸福を勝ち取るための毎回の闘争の中で犠牲になった人民の英雄達は永遠に不滅だ!」

 碑文で記載された記念対象者は、限定されている――。1946年からの国共内戦、1919年の五四運動以降の抵抗運動・抗日戦争、1840年のアヘン戦争以降の諸抵抗運動。

 その列挙対象者をさらに具体的に明示されているのは、人民英雄記念碑の台座部分である。台座部分には、中国近代史における主な事件(アヘン戦争の原因となった1839年の林則徐の広東省虎門でのアヘン焼却事件「虎門銷煙」、太平天国の乱のきっかけになった1851年の「金田蜂起」、辛亥革命のきっかけとなった1911年の「武昌蜂起」、1919年の北京での「五四運動」、1925年の上海での労働者のデモにイギリス軍が発砲した「五・三〇事件」、1927年に江西省で起こった国共内戦の始まりであり中国人民解放軍の誕生とされる「南昌蜂起」、1937年からの「日中戦争」、1946年からの第2次国共内戦の一つで中国共産党の勝利を決定的にした1949年4月の「長江渡江戦争」)のレリーフが彫られている。

 日中戦争や国共内戦で犠牲になった中国国民党の兵士(もちろん、中国人兵士)は対象外とされているのが明らかである。国共内戦で解放軍誕生とされる「南昌蜂起」や、国民党を大敗させた「長江渡江戦争」がそれを裏付ける。

 人民英雄記念碑で祀られている対象者は、戦争や動乱で命を落とした全中国人ではなく、あくまでも共産党政権の樹立のために犠牲となった中国人、あるいは共産党政権の正統性を裏付ける近代史上の中国人に限定されているのである。

 つまりは、人民英雄記念碑は、記念対象者が政治的に限定され、きわめて政治性濃厚な慰霊施設である。

● 「万世一系」の日本と「改朝換代」の中国

 一方、靖国神社はどうだろうか。同神社の公式ウェブサイトを見ても分かるように、明治維新の犠牲者、幕末の志士達、日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦・満洲事変・支那事変・大東亜戦争などの対外事変や戦争に際して国家防衛のために亡くなった方々の神霊が祀られている。

 さらに軍人だけでなく、民間人にまで及ぶ。戦場救援にあたった従軍看護婦や女学生、軍需工場で亡くなった学徒、日本人として戦い亡くなった台湾及び朝鮮半島出身者、シベリア抑留中に死亡した軍人・軍属。そして、大東亜戦争終結時にいわゆる戦争犯罪人として処刑された方々も含まれている。

 このように、靖国神社では神霊が身分・勲功・男女の区別なく、日本国に殉じられた尊い神霊(靖国の大神)として一律平等に祀られている。つまり、「国家のために命を捧げた者を慰霊顕彰すること」が靖国神社の目的である。さらにいうと、たとえ国家や国家戦略、国家行為に間違い(戦争発動や推進も含めて)があっても、国家に命を捧げた御霊はその尊さを失うものではない。

 しかしこれに対して、同じ中国人でも、共産党のために命を捧げた人と、国民党のために戦死した人の対処がまったく違ってくる。後者は当然ながら、人民英雄記念碑から排除されるのである。

 日本は「万世一系」の国であるのに対し、中国は「改朝換代」の国である。

 「改朝換代」とは、王朝や政権が変わることであり、そこで「英雄」の定義も変わる。「英雄」とは、長い歴史に横たわる広義的な「中国」ではなく、特定の王朝や政権に対し定義づけられているのである。

 そして何よりも大切なことがある――。「死ねば、神であり、仏」というのは、日本独自の文化である。日本では、死ねば誰しも神や仏となるのだが、中国は死者の身分やその死に方で分別処理されるのである――。

● 敵や犯罪者なら同胞でも「死者に唾吐き、鞭打つ」、中国の死者仕分け

 現政権に命を捧げた人は英雄であるが、敵側に立って死んだ人はたとえ同胞であっても、記念されないどころか、場合によって死体に唾を吐き、時には「死者に鞭打つ」のである。

 浙江省杭州にある岳王廟には、岳飛という民族英雄とされる人物が祀られている。岳飛は中国南宋の武将。南宋を攻撃する金に対して幾度となく勝利を収めたが、岳飛らの勢力が拡大することを恐れた宰相・秦檜に殺された。英雄の岳飛に対し、秦檜は後世、売国奴の代名詞となり蔑まれた。

 この岳王廟には実は、秦檜夫妻の像も併設されているのである。2人の像は檻のような鉄柵の中に入れられ後手に縛られ、ひざまずいて土下座し、うなだれている。「死せる秦檜を鉄人として再生させ、さらしものの刑にかけて、醜を天下に晒させたい」という後世の民衆の思いから、長年、この夫婦像に唾を吐く風習が付いている。とうとう衛生上の理由などから、最近、「唾を吐きかけるな」と塀の掲示板が掲げられたのだが、それでも地面に唾が落ちている光景は昔と変わらない。

 「もう、そろそろ、いいじゃないか、秦檜夫妻のことも静かに眠らせたら」と思うのは私だけだろうか。もう一つの例を挙げよう。

 北京市郊外の福田霊園に、死者の出身地や経歴が記されない、しかも死後11年経ってようやく建てられた、一風変わった墓碑がある。実はこの墓に眠っているのは、毛沢東夫人の江青女史である。毛沢東死去直後に失脚し、「四人組」として執行猶予付きの死刑判決を受け、1991年に北京で自殺した。江青氏は生前、多くの党幹部や知識人を弾圧、迫害したことから、その墓が破壊されるのを恐れ、遺族が遺骨を自宅に長いこと保管したのであった。

 中国では人間が死んで終止符を打たれることがない。中国語で「死有余辜」(出典:東漢・班固「漢書・路温舒伝」)という言葉がある。つまり、死んでも罪を償いきれない、罪が極めて重いため、死後でも余罪を追及するという意味である。

 「死者に唾吐き、鞭打つ」というのはまさに、死後の刑に当たる。

● 人民英雄記念碑の時限機能

 さらにいうと、人民英雄記念碑は、明確な時限を示されている。中華人民共和国建国までの英雄を記念するものであり、碑文の日付にも明示されているように、「1949年9月30日」と、中華人民共和国建国の前日を境目に締め切られている。少なくとも建国後の人民英雄について何ら言及もされていない。

 建国後、言ってみれば現王朝期間中の「人民英雄」はどうなっているのだろうか。そもそも「人民英雄」の定義付けとは何か、それがどこまで網羅するか。靖国神社は「国家のために命を捧げた」という「国家英雄」であり、それに対し、「人民英雄」はむしろもっと広義的に捉えるべきであろう。

 2008年中国の四川大地震後、犠牲者を悼む「全国哀悼日」が始まり、北京の天安門広場では国旗の半旗が掲げられた。中国メディアによると、毛沢東、周恩来、鄧小平各氏ら指導者の死去に際して半旗が掲げられたことは過去にあったが、一般市民に対しては初めてという。これは中国が真の意義において「人民」を意識した時でもあった。

 大地震の受難者はともかく、国家行為による被害者の中国人民は記念されるべきではないだろうか。文化大革命期間に被害者となって命を落とした中国人民はそのまま放置されていいのだろうか。

 さらに難しいのは1989年の天安門事件で亡くなった学生たち。彼たちの死はおそらく二つのステータス、二者択一しかない――。自由と民主を求める英雄か、国家を転覆しようとする犯罪人かである。後者であれば、裁判を経ずに死刑に処した法的根拠は何なのか・・・・・・。

 などなど、中国政府にとって回答が出せない難問ばかりだ。それで責めるつもりはない。人それぞれ、国家それぞれの事情があることは同じだ。それに対し、価値観や利害関係などを含めた全体的な相互の理解ほど大切なことはない。

 そして、いま。首相から庶民まで参拝する靖国神社、人民が立ち入り禁止となった人民英雄記念碑、これがまさに日中両国の現状である。

● 靖国神社参拝に反対する日本人たち

 靖国神社参拝に対し、日中両国に異なる理解があって当然である。たとえ同じ日本人でも安倍首相の靖国神社参拝に賛否両論である。

 安倍首相の靖国参拝に反対する日本人の中には、中国ビジネスにかかわる企業や個人が多く含まれている――。

 「(参拝の)タイミングが悪すぎる」
 「何もわざわざ靖国参拝して、中国を挑発することはないじゃないか」
 「日中友好が大切だ、平和に話し合おうよ」……

 参拝のタイミングが悪いというのなら、いつ参拝したらいいのだろうか。小泉元首相以降7年間日本の首相が一度も靖国を参拝していないが、日中関係は改善したのだろうか。日中友好や平和に異議を唱える人はいないだろう。正論を語ることは誰でもできるが、実際に問題はどう解決するか、案を出してくれるのだろうか。

 と、反問されても答えられない。主義主張で首相の靖国参拝に反対する日本人はどのくらいいるのだろうか。要するに、中国ビジネスをやっている企業や個人は、商売のかく乱要因になるから反対する。商売がぶち壊されてたまるか、それだけの理由ではないだろうか。だったら、はっきりいえばいいじゃないか。「中国ビジネスをやっているもんだから、靖国参拝は勘弁して」といえばいいじゃないか。それも誰もがいえるわけではない。そこで、「日中友好」やら「安定な関係」やら大義名分的な理由を担ぎ出すのであろう。

 何を隠そう、この私自身も中国ビジネスで糧を得ている人間として、日中間の平和友好があって日本企業がどんどん中国に進出してくれたほうが商売になって、何よりも実利的に都合がよく、両手を挙げて「日中友好」に賛成するところである。安倍首相の靖国参拝で悪影響を及ぼしている以上、いくらでもこの種の大義名分的な反対理由を並べることが可能であろう。ただその反対理由はあっという間に論破されるのである。

 「日本の首相が靖国神社を参拝する → 中国が怒る → 日中関係が悪化する → 中国ビジネスに影響が出る → 利益が減る」

 これは、ひとつのロジックである。しかし、このロジックは果たして成立するのだろうか。いくつか反問してみると、答えが見えてくるはずだ。

 「日本の首相が靖国神社を参拝しなければ、中国は怒らないのか?」
 「中国が本当に怒っているのが靖国参拝なのか?」
 「靖国問題が日中関係の唯一、かつ根本的な問題所在か?」
 「中国事業の利益が企業の唯一、かつ中核的な収益源なのか?」
 「中国事業に拘るのだったら、日本企業をやめて中国企業になれないものか?」
 「中国事業は目的か、それとも手段?」……

● 丹羽元中国大使はなぜ失格か

 中国ビジネスで糧を得て生計を立てている人、利益を上げている企業にとって、商売がぶち壊されると、たまったものではない。が、ただそれだけのことで、本物の日中友好原理主義者ではないはずだ。私財を差し出しても、日中友好を聖なる使命とする、いわゆる原理主義的な人は果たしているのだろうか。結局、経済的理由に立脚した功利主義的な「友好」だけではないか。

 これはある意味で、中国で商売が成り立って飯を食っている、という一つの利益集団にすぎない。もちろん、私自身もその一員である。では、この利益集団は大きな規模を有し、日本の政治を動かすに十分な力をもっているのだろうか。

 日本国内において、今回の安倍首相の靖国参拝について各社の世論調査結果が発表された。「妥当」や「賛成」と答えた人は、Yahooの意識調査では8割、民放TBS系では7割、「親中系」とされる朝日新聞でも6割という結果が出ている。安倍首相の靖国参拝に少なくとも6割か7割の国民が賛成票を投じている以上、民主主義のルールに則って、この中国関連利益集団の主張はあくまでもマイノリティーであって、表舞台に出る権利はない。民主主義は良くも悪くも多数決の世界である。政治家は民意たるものを無視できない。

 この事実を正視し、受け止めるべきではないだろうか。政治や外交にはそれなりのルールがあって、それはわれわれ民間企業やビジネスパーソンのミクロ的利益所在とは必ずしも恒久的に一致するとは限らない。

 丹羽元中国大使は、まさに企業人と外交官の立場を混同した発言を繰り返しているからこそ、問題になったわけだ。私は丹羽氏が外交官として失格と思っている理由は、身分不相応な言動を行っているからだ。プロ失格である。その発言や姿勢には、中国ビジネスに関わる企業や中国で糧を得ている人からどんなに拍手喝采を送り続けても、丹羽氏は終始一介の商社マンでしかありえないのである。

 われわれ民間企業やビジネスパーソンと政治家や外交官とは、常に同じ土俵で物事を論じることはできない。個益、社益、国益そして政治家それぞれの利益は違う次元で異質なものである。これを決して無視できない。

● 「撤退」よりも「戦死」続出、日中関係は氷河期突入

 安倍首相の靖国参拝で泣き面に蜂。中国ビジネスにかかわる日本人でそう考えている人が多いだろう。なるべくその辺のアンタッチャブルな領域として、安倍政権に触れてほしくない。これが本音ではないだろうか。このような訴求が日本国内で「参拝賛成派」を逆転して、6割や7割になれば、安倍首相も違う決断をしていたのかもしれない。政治とは異なる利益集団間の力関係で決まるのである。

 安倍首相の靖国参拝で2013年を締めくくったが、それが恐らく序幕にすぎない。2014年や来年2015年は目白押しだ。ビッグイベントは間違いなく、日本国憲法改正、そして国防軍あるいは日本国軍の整備であろう。中国のことばでいうと、「右翼政権の台頭」だ。それに対し、日中関係改善の顕在的な材料はほとんど見えない。

 日中関係は今後中長期的に氷河期に突入する。

 企業としてこれをしっかり視野に入れて、マイナス材料すべて折り込み済みのビジネス戦略を練らなければならない。日中関係頼みの商売はどんどん潰れてもおかしくない。

 「中国撤退」

 最近キーワードのように流行っているが、いやいや、それは甘すぎる。まとめに撤退できるのは体力のある企業に限られているのである。

 2013年のキーワードは「撤退」、今年2014年は「敗退」という方もおられる。惨敗してボロボロになって逃げるように中国を脱出する。いや、本場はこれからだ。2015年は何かというと、「戦死」であろう。無血戦死。

 中国ビジネスの最大な難関は、「入口」ではなく「出口」だ。撤退できない。敗退もできない。あとは、万歳三唱して「戦死」するしかない。いや、太平洋戦争中は、まだ天皇陛下万歳を言えたけれど、いまの中国ではそれもできないのである。壮烈そのもの。

● 「日中友好」は賞味期限切れ、「友好」は目的か手段か

 日中友好は不要だ。

 ――私の持論である。正確にいうと、「日中友好」は賞味期限切れである。歴史の軸からみると、日中友好の時代が終わった。そもそも、「日中友好」とは何か、敵対関係にあったから、仲良くしようということで、「友好」が必要になるわけだ。「友好」が互いにとって利益になるから、「友好」で行こうということだ。つまり、「不友好」前提の「友好」である。そして、「友好」の目的は結果的に、「利益」である。

 日中の関係を作り上げた田中角栄氏や周恩来氏は慈善家でも親善家でもなければ、ノーベル平和賞など到底授与される資格もない。彼たちはあくまでもその時点で両国のそれぞれの国益の観点から「友好」を選んだのであった。

 「友好」とは、目的か手段かという問いに、答えが分かれる。原理主義的な平和論者なら目的であるが、功利主義的な経済人なら手段となる。

 政治家の使命は、国益である。なぜなら、彼たちは国民から選ばれた国民の利益の代弁者であるからだ。鳩山元首相のような、国益よりもまず「友愛」を語るのが政治家ではなく、慈善家である。日本国内に公式発表でも十数億円の資産を持つ身として、自己名誉が最大な利益所在であるから、政治家の常識から逸脱する言論を連発するのである。

 日中両国の利益のベクトルがたまたま一致して「友好」に指している時代においては、「日中友好」が成立する。そこで決して誤解してはいけない。「日中友好」があたかも終極的ゴールのように見えても、国家レベルの利益追求の一手段にすぎないことに、何ら本質的な変化も見られない。

 われわれは知らないうちに、「日中友好」というものを聖書の一節のように暗記し、脳に焼き付けては普遍の真理、哲学のように口にする。それがまさに本質を見失うときでもある。

 企業も日中友好の追い風に後押され、中国で工場を作り、物を売り、日本国内市場の衰退や経済の停滞がまさに中国ビジネスに拍車をかけ、とんとん拍子で日本企業は中国に進軍する。気がついたら、中国に日系企業だらけになっていた。これはすべて「日中友好」のお蔭だ、とまで錯覚を起こしてしまうのである。

 商社マン上がりの新米外交官である丹羽元中国大使まで、「日中友好」の信奉者に成り上がったことを見ると、「日中友好」の魔力には閉口せざるを得ない。

 しかし、「日中友好」は、もう歴史になった。金儲けのための道具として使われてきた「日中友好」はもう賞味期限切れになった。

● 中国のGDPが日本の10倍になれば、真の「日中平和・友好」が実現する

 「中国のGDPが日本の10倍を超えなければ、日中間に平和は訪れない」

 私が言っていることではない。中国メディア・中国新聞社は2013年2月8日付、日中関係の論説記事を掲載し、中国中日関係史学会副会長の馮昭奎氏の発言を紹介した。

 馮氏は記事の中で、西暦1年から1820年まで国際GKドル基準で計算した中国のGDPが日本のGDPの10倍を超えていた事実を挙げ、「日中が平和に付き合っていた時期というのは、『中強日弱』の時期だった」と力説した。

 馮氏は、「強・強型」にある現在の日中関係は今後20年続いた後、いずれ「中強日弱」の状態に回帰し、日本は将来的には米国追随から中国頼りに転換せざるを得ないと予測し、「その過程において中国と争い張り合う必要があるのか、それが今後の日中関係を考える上での核心的な問題になるかもしれない」と指摘した。さらに、中国は「真の先進国、強国となって日本を完全に心から信服させなければならない」とし、そうしなければ「日中関係の平和や『友好』は訪れない」と結論付けた。

 換言すれば、日本の国力低下、相対的弱体化、あるいは素直に降参することが「日中友好」の基礎である。もちろん、これは断じて日本、日本人にとって受け入れられることではない。

 「小日本」。これは中国大陸において日本に対する一般的な蔑称である。「小」がついていることはまさにこれを物語っている――「このちっぽけな日本は・・・」。数千年の歴史と文化を誇る大国はこんなちっぽけな日本に負けてたまるか。中国の自尊心やプライドがまさにすべての根源である。

● 「変えられるもの」と「変えられないもの」

 過酷な現実に直面するわれわれ、ある哲学を想起すべきであろう。20世紀を代表するプロテスタント神学者、牧師、政治学者、ラインホルド・ニーバーが、「ニーバーの祈り」でこう語った。

 神よ、
 変えることのできるものについては、
 それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
 変えることのできないものについては、
 それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ。
 そして、
 変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
 識別する英知を与えたまえ。

 日中関係が氷河期に突入する。しかも、改善につながるプラス材料はいまのところ、ない。これの変えられない現実とどう向き合うべきか。われわれ自身を変えていくよりほかない。

 私は中国企業の中堅幹部研修を各社から引き受けている。研修の目的は、上級管理職、経営幹部ないし経営者の育成、日系企業の現地化である。経営者や経営幹部の研修でもっとも大切なことは、経営現場の課題抽出と解決である。そこで、必要となるコア・ツールは論理的な思考でいわゆるロジカルシンキング。しかし、多くの中国人幹部のこれがとにかく弱いことに気づいた。

 せっかく課題を抽出し、いろんな「問題源」を見つけ、そこで解決方法を考えようとするときに、駄目出しの連発だ。いろんな既存の条件制限を引っ張り出して、あれもこれもダメじゃないかというのである。

 たとえば、物流コストの削減が課題だ。では、煩雑な流通プロセスを簡素化しようと、中間業者をもっとカットできるのではないかという解決案が出た時点で、「いや、あの物流会社を使うことになっているのだ」とルールを引っ張り出して案の否定に乗り出す。

 ちょっと待ってよ。ロジカルシンキングの基礎となるものは、仮説を立てることだ。ゼロベース思考でもある。「あの物流会社を使う」という制約条件をゼロベースにしないといけない。「あの物流会社」ではなく、「どの物流会社」である。「どの物流会社を使ったほうが一番コストパフォーマンスがよい」、これを議論するのである。もっと言ってしまえば、「物流会社を使う必要があるか」を考えようではないかと。

 「いや、物流業者を使わなければ、商品をどうやってお客様に届けるのか」。ここまでくるとようやく論理的な議論が始まる。「お客様に自社倉庫にまで取りに来てもらえないのか」「それは、できるのか」「物流コストと管理コストを販売価格から引いてオファーしてみては」……。

 このように議論が議論を呼び、可能性が一気に広がるわけである。その前提は、駄目だしをせず、仮説を立てることである――。「もし、それができるのであれば、では、○×○×」ということである。最後に、問題解決の妨げになっている規則やルールは、「変えられるもの」か「変えられないもの」かを議論すればよい。

 日本企業の中国人幹部の多くは、社内規則やルールにしか目を向けない。日本人幹部もまた本社の意向を意識しすぎると、論理的な議論ができなくなってしまう。

 中国ビジネスも同じである。日中関係やその辺の事情はもはや「変えられない」ものである。ならば、われわれ企業自身を変えていくしかない。それも「変えられない」ものであることが判明すれば、残される道は一つしかない――中国撤退。

 中国で生き延びるための唯一の可能性は、企業自身を変えるよりほかない。これから、日本の首相が毎年靖国神社を参拝し、憲法改正で日本国防軍が整備され、日中関係がさらに悪化し、下手にすると局部的な武力衝突ないし戦争に発展する、たとえこうなっても、日本企業は中国できちんと経営し、利益を出し続ける。これを実現するための「強い経営」とは何か。答えはたった一つ、日本企業の自己変革である。これに多大な苦痛が伴うことはいうまでもない。

 この大手術を受け入れる準備はできているのか。

● 性善説立脚の思考回路は中国で通用しない!

 「日経ビジネス」2013年2月18日号に掲載された編集長山川龍雄氏のコメントを紹介する。

 「日本企業は相手を信用しすぎかもしれません」――。

 「反日・中国と生きる道」と題した今号の特集のゲラを読みながら、2011年にロッテグループの重光昭夫会長を取材した際に聞かされた言葉を思い出しました。「なぜ日本企業の中国ビジネスはうまくいかないことが多いのか」と質問した時の回答でした。「新興国は低信頼性社会。何が起きるか分からない。例えばあるビルを建設会社に頼んだ際、手抜きなくやっていると誰が証明できますか」

 こう続いたと記憶しています。

 新興国を攻める際には、都市の中心部に「ロッテ」の名を冠した複合ビルを建て、百貨店やホテル、レジャー施設などを展開する。そうして地元に社名を知らしめ、菓子や飲料を販売していく。これがロッテの勝利の方程式です。その際、グループに建設や石油化学部門を持つ強みを生かして、再開発事業を決して地元の業者任せにしない。将来の政治リスクも考えて地元自治体には精いっぱい恩を売っておく。こうした、したたかさが同社の新興国での快進撃を支えています。

 安心・安全の国に育った我々は、どうしても性善説に立って、物事を考えがちです。そのこと自体は悪いことだとは思いません。ただ、特に中国では現地の顧客や従業員、取引先に尽くそうとする熱い気持ちと、相手の言いなりにはならないという冷静さの両方が必要です。特集で紹介していますが、3回目を数える反日デモ後の中国人消費者調査でも、日本製品の不買意識に劇的な改善は見られませんでした。この国とは、したたかにつき合っていくしかありません。

 現地の顧客や従業員、取引先など相手に尽くそうという熱い気持ちは見事に裏切られる。こういう事例は中国のビジネス現場では数えきれない。ビジネスだけではない。政治も同じだ。対中関係を意識して小泉元首相以降7年も日本の首相が靖国神社を参拝していない。日中関係はそれで好転したのだろうか、むしろ悪化したとしか考えられない。

 靖国問題が果たして日中関係に影響する主因だったのだろうか。尖閣問題はどうだろう。日中関係に影響する要因は複数ある。前述した「中国のGDPが日本の10倍を超えなければ、日中間に平和は訪れない」というような話は、もはや公に語られないものである。ところが、これは一つの真実であって、無視できない真実である。

● 鬼参拝の話、空前の毛沢東ブームで見る真の中国リスク

 日本企業は、日中関係を過重に見ている。日本企業だから、どうしても二国間関係というミクロに着目しがちだが、中国を全体的に俯瞰すれば、真のコア・リスクは、日中関係ではなく、中国国内情勢にあることに気づく。

 昨年末、毛沢東の生誕120周年にあたる2013年12月26日に、習近平国家主席ら中国の首脳陣が、遺体を安置する北京の毛主席記念堂にそろって参拝した。タイミングがよくこれと同じ日に安倍首相が靖国神社を参拝した。

 「政治家が鬼(死者、亡霊)を参拝するのは、心の中に鬼(邪念、企みを秘めた心)があるからだ」「億万の中国人民が偉大な領袖・指導者、世界でもっとも聡明かつカリスマ的な先代リーダーである毛沢東(元)主席の生誕の日に、中国の最高指導者らが集団で毛沢東を参拝する時、無数の中国人が集団をなして毛主席の帰来を呼びかける時、小日本の安倍首相がなんと便乗して靖国神社を参拝しているのではないか。これは中国の領袖・指導者に対する風刺、中国の最高指導者層に対する挑発である。すべての拝鬼行為に対し、強烈な抗議を行う」

 ネットでは、オピニオン・リーダーたちのこのようコメントが流れている。一見日本に対する抗議であるかのように見えるが、果たしてそうなのか。

 中国語の「鬼」とは、死者や亡霊、邪念など多重な解釈を有している。「拝鬼者心中有鬼」、つまり「亡霊を参拝する者の心には、邪悪な企みを秘めている」という意味である。表向きには日本の安倍首相に向けられているが、毛沢東を参拝する習近平氏も射程下に置かれていないか。そのうえ、「すべての拝鬼行為」と明言している以上、意図は明らかである。純粋たるナショナリズムであれば、安倍首相向けの批判というシンプルな一本にすればいいのに、なぜわざわざ回りくどい、しかもぎこちない表現にするのか。その真の意図は容易に見透かすことができよう。むしろ、安倍首相の「拝鬼」を借りて、習近平主席の「拝鬼」を風刺しようとしているのではないだろうか。

 「日本人が参拝しているのは、他国民を殺した悪人であるのに対し、われわれが参拝しているのは自国民を殺した悪人である」。ネット上ではこのような解釈もなされている。

 「言語解釈の知識レベルがこの境地に到達すれば、普段なら中国外務省の立場に立つことがありえない、一部のリベラリスト知識人がなぜ、今回だけ口をそろえて『政治家の拝鬼(亡霊参拝)に強烈抗議する』と叫んだか、これを容易に理解できるだろう。彼たちが『日本』という二文字を省略したのも、『中国』に置き換えて埋めるための空間を空けるためであろう」

 一方、毛沢東参拝は、国内に広がる空前の毛ブーム抜きには語れない。「腐敗」「不公平」に対する中国国民の怨嗟の声がやまない。毛沢東時代に比べると格段と経済が発展し、国力もつき、国民が全体的に豊かになったとはいえ、権力を駆使した金儲けが氾濫し、腐敗や不公平な競争に起源する貧富の格差が拡大している。これなら、みんな公平で均等に貧しい時代がまだましだ。毛沢東ブームは単なるセンチメンタルな懐旧ではない。

 中国国内では異なる利益集団が分かれ、対立が目立ち、中国社会の土台がぐらついている。深刻な国内問題に比較すれば、日中関係は取るに足らない末梢的な課題に過ぎないことは明白である。逆に、中国指導部にとってみれば日本のいわゆる「右翼の台頭」や「右傾化」は国民の目線をそらすための材料であるだけに、利用しない手はない。これが現実である

 問題の本質は、日中関係ではなく、中国国内政治にある。さらにいうと、国内情勢が安定に向かうプラス材料がなく、その気配も見られない今日、空気汚染の深刻化、経済の落ち込みなど、状況がさらに悪化している。

● 強い経営、「非国民的企業」を目指せ!

 ちょうど1年前の2012年1月1日、産経新聞は国際面トップで私に対する取材を掲載した。私がその時に言ったこと、「チャイナ・オンリー組」、「チャイナ・プラス・ワン組」、そして「チャイナ・ゼロ組」という3グループ分けについて、これからはまさに本格的に始動する。

 年頭の特別レポートは、いつも本年の中国情勢の予測が定番だが、いまの中国はもはや予測の意味がない。最悪な材料折り込み済みの事業計画の作成以外、できることは少ない。将来的に中国で生き残る日系企業は、むしろある意味で一種の「脱日系企業」であって、中に誰から見ても体質的に強かな「中国企業」に近いもので、このような「非国民的な日本企業」も出てくるだろう。いままでの経営理念も組織も慣行も、そして成功の体験もすべて捨て、ゼロベースの思考に立脚し、生まれ変わった強い企業になる。

 望まないが、仮に武力衝突ないし戦争になっても、動じない企業。このような企業作りに、私は全力あげてサポートしていきたい。挑戦は大きいが、大きな転機が見えてきた。日中関係の中長期的悪化、氷河期突入は一服の劇薬になって、日本企業の脱皮、いや再生を促す転機になる、このように願ってやまない。

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