年頭のご挨拶~≪特別レポート≫中国経営における性善説、性悪説と性弱説

 2015年、新年明けましておめでとうございます。

 エリス・コンサルティングのお客様、関係者の皆様に、新年のご挨拶を申し上げます。皆様、新年はいかがお過ごしでしたか?私は居住ベースをクアラルンプールに移して2回目の新年を赤道直下の南国で迎えることができました。1年余りの「職住分離」の生活を振り返って移住が正しい決断であったことを改めて確認しました。

 ふと思い出したのは、昨年2014年の新年挨拶です。その一節を再掲します――。

 「……マレーシアに居を移し、職住分離に踏み切った最大な理由は実は、私自身のメンタルヘルス・マネジメント(心の健康管理)にありました。中国在住13年、日系企業の人事労務コンサルティングという仕事柄、もはや仕事の現場で人間の悪の側面、そして何よりもその悪を引き出し、増大を促す法制度の歪みを見せ付けられる機会があまりにも多すぎました」

 「悪戦苦闘で心身ともに疲れ果てた企業経営者・幹部の皆様を目の当たりにし、私自身も知らず知らずに疲弊が進行していました。警戒心を持ちすぎて、何事も性悪説的に捉える傾向が顕著になりました。家族にも指摘されたとき、私はその深刻さを自覚しました。もはやこれ以上放置することはできませんでした。マレーシアに移住してから、・・・職住を分離したお陰で、自分の心の平和をほぼ取り戻しました。……」

 この一節を再掲する理由は、この1年を通して、この認識がさらに深まったというよりも、性悪説や性善説に対し様々な検証を行って本質が少しずつ見えてきたところにあります。中国在住時代に私自身に染みついたいわゆる性悪説は、マレーシアでの平和な生活によってメンタル問題への悪化こそが回避したものの、決して性悪説自体がもみ消されたわけではありません。むしろ、性悪説や性善説、そしてその延長線上の深層まで掘り下げ、本質を冷静に見つめる空間と時間を得たのでありました。マレーシアでの生活、特にイスラム教に触れたところで思考がある意味で刺激を受け、建設的な発展がありました。

 系統的に整理しまとめ上げるにはまだ少々時間を要しますが、とりあえず一部断片的なところも含め、中間報告として皆様と共有できればと考えます。そしてこれらの材料が皆様の中国での経営に少しでも参考になれれば、これ以上嬉しいことはありません。

 皆様にとって2015年は素晴らしき一年でありますよう、心からお祈り申し上げます。

立花 聡
2015年元旦

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≪特別レポート≫中国経営における性善説、性悪説と性弱説

 先日、某日系企業A社の日本人トップが私の事務所にやってきた。その会社を円満退職した中国人従業員Bさんに訴えられた労働訴訟の相談のためだった。この日本人トップが次のように語った。

 「このBさんだけは信頼していました。しかも、あれだけ前途を祝福して、円満退職で送り出したのに、何で?理解できません。涙が出ました。私は立花さんのセミナーを何年も聞いてきました。立花さんがおっしゃっている性悪説的な経営や人事管理について、何となく筋が通っているから頷けましたが、いざ社内に戻ってみると、そこまでやる必要があるのかと、なかなか踏み切れませんでした。最終的に、自分がまさか悲劇の主人公になるとは夢にも思いませんでした。いざこうなった今、本当に、本当に心から納得しました。涙を出しながらも、歯を食いしばってやるべきことをやり通したいと決意しました」

 不義の従業員Bさんであった……。

● 性善説の本質とは

 ほとんどの日本人は、基本的に儒教起源の性善説者である。すべての人間を善人とみなし、まず仮説的に満点を与える。悪人が現れたとき、減点法を用いて悪人自身の品行に対し減点をしたり、場合によって極悪の人間であればこれを性善説の対象から徹底的に解除する。

 性善説の「性」とは、人の本性やものの本質のことを指している。「性」という漢字の構造を見ても分かるように、立心偏の「心」に「生」がつき、生まれながらの心という意味である。では、性善説というのは、「人間が生まれつき、その本性が善である」という認識になるのだろうか。

 性善説は、儒家の一人孟子に由来する。孟子が生きた時代は、人の本性について、「性には善も悪もない」というような中性説もあれば、「性善者もいれば、性悪者もいる」とする併存説、あるいは「人の中で善悪が入り交じっている」とする両性説など、諸説が流布していた。これらに対し孟子は「性善説」を唱えた。要するに「性善説」自体が諸説の中の一説に過ぎなかった。

 さらに掘り下げると、「四端の心」、つまり性善説の根本的な4要素がある。 孟子は「惻隠の心は仁の端なり、羞悪の心は義の端なり、辞譲の心は礼の端なり、是非の心は智の端なり」という。

 「惻隠」とは、他者の苦境を見過ごせない忍びざる心、憐れみの心。「羞悪」とは、不正を羞恥する心。「辞」とは、謙譲の心。最後に、「是非」とは、善悪を分別する心。

 さらに、注目してほしいのは「端」である。「端」とは、兆し、はしり、あるいは萌芽を意味する。要するに善の元である「四端」は、生まれつき備わる要素ではあるが、何らかの過程によってこれらを芽生えさせ、拡充させ、最終的に「仁・義・礼・智」という4つの徳を顕現させるよう取り組まなければならないと説いているのである。

 端的に言えば、「性善説」とは、良き材料であって、善の兆しである。善の兆しとは善となるための可能性である。決して生まれつき善となるのではない。生まれつきの本能や欲望とは異次元の本質を有しているのである。

● 欲と本能とは

 しかし一方、「欲」というのは、そのほとんどが人間生まれつきの本能である。赤ちゃんや小さい子供は、人にあって自分にないものを欲しがり、またいったん手に入れたものを手放そうとしない。これはまさに生まれつきの独占支配欲であり、教える必要はまったくない。そこで、仮にこの欲をさらに教えると、それは欲の強化、本能の暴走になりかねない。だからこそ、欲の抑制に「四端の心」を教え、善の要素を顕現させ、バランスを取らなければならないのである。

 つまりは、性善説は現状の表現ではなく、理想的方向へ向かわせるための呼び掛けなのである。

 この呼びかけの役割を引き受けているメジャープレイヤーは宗教である。われわれの身近にある仏教では、欲そのものは人間に本能的に具わっているものとして、欲からの解放を呼び掛け、修行などの諸活動を通じて善とされる無欲に近づくことを求めている。出家者は「少欲知足」といい、わずかな物で満足することを基本とした。裏を返せばこれは、人間は「多欲不知足」という本能の持ち主であることを物語るほかならない。

● 欲の「隠ぺい欲」と「自己防衛欲」

 私は企業の研修現場で受講生によくある質問を聞く。「あなたは、欲をもっていますか。私利私欲を図りたいと思いますか」

 すると大体次のような返事が返ってくる。「会社の利益を考えて動かなければなりませんし、私もそうしています」

 これは、典型的な論点のすり替えである。「欲の有無」という質問への回答を避け、ある正論、正確に言うと「べき論」を持ち出すのである。なぜなら、私利私欲は悪の部類に属す本能であって、これを認めると企業の中で自分の評価が落ちてしまうからである。よく考えると、この答えは、「自分は悪者にされたくない、良い評価を得たい」というまさに、承認欲求から来ているのではないかということが分かる。

 欲の否定や隠ぺいそれ自体が、欲の表れである。それだけ、人間は無意識にいろんな欲を持ち合わせているのである。

 「私利私欲をもっていますか」という質問に対し、返ってくる「会社の利益を考える」という回答は、論点のすり替えであっても、決して間違った回答ではない。「私利私欲」をもちつつも、「会社利益」を求めることだってたくさんあるし、何もおかしくない。

 ただ、「私利私欲」と「会社利益」が相反するとき、どれを優先させるか。この核心的質問をぶつけると、「そんなことをなぜ聞くんですか?われわれを信じていないんですか」と顔を真っ赤にしてムキになるのである。

 またもや、論点のすり替え――。利益相反という質問の論点から逃げ出し、質問者の人格を問い詰める反撃的な防衛に出たのである。「信じていない」と位置付けるのは、質問者に対し「懐疑心、性悪説的な憶測」といった反面材料(攻撃対象化)を作り上げるためである。攻撃を仕掛けるには、仮想敵の存在が必要不可欠だ。しかも、なぜか知らないうちに、「われわれ」という複数形にされたのも、集団的正義に基づく陣営の構築には好都合なのだからである。

 実はこれ自体が非難(予見に基づくものも含む)から自己を守り、自己正当化を伴う一種の防衛欲の発露である。

 このように気がつけば、いたるところに欲が存在し、その欲を基軸とした攻防戦が繰り広げられるのである。

● 他者依存・他力本願の性善説

 「性善説」とは、決して生まれつき善となるのではない。人の中に内在する善の要素を引き出し、拡充させ、善という形にしていく作業が必要だ。この作業の有無や程度によって、性善説の成就が決まるのであり、決して望めばすべての人が望まれるとおりの善をなしてくれるわけではない。

 性善説は、担保されたものではなく、他者次第であり、他者依存や他力本願に基づくものである。ならば、その運用には十分な注意が必要であろう。だが、戦後の日本、国家運営自体も「性善説」をベースとした憲法の制約を受けてきた。

 「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して……」という日本国憲法の前文についていくつか質問を提起する。

 諸国民とはすべての国家を網羅するのか?すべて国家と国民は平和を愛するのか?平和を愛さない、公正と信義を有しない国家や国民が現れた場合はどうする?……

 さらに質問する。仮に全世界すべての国家・国民が平和を愛すという仮説が成立する場合、利益を前面に、利益と平和が天秤に掛けられたとき、必ず平和を優先させる保障はあるのか?――会社の従業員に、「私利私欲」と「会社利益」が相反するとき、どれを優先させるかという質問と同じである。

 人間にとって平和があったほうがいいに決まっている。もし平和が人間生まれつきの本能であれば、あえて憲法や国際条約に盛り込まなくてもよかろう。平和は残念ながら人間の本能ではなく、性善説によって引き出された善の結果である。限りなき欲求を抑え共存共栄という大義に深く賛同し、これを実践するという高度の倫理的規範のもとで行われた判断、意思決定と行動、まさに性善説から生まれた善の結果である。

 この結果を導き出せるかどうかは、憲法制定国以外に多数の当事者(他国や他国民)に関わっており、憲法制定国が一方的に望んだ通りの結果が生み出されるわけではないのである。

 いってみれば、自分の意思では他人の行動を決められないことであり、それがあるとすれば、単なる他者依存の願望にすぎない。これだけ単純なことだ。

● 世の中一番怖いのが「正論」だ

 「平和」は正論だ。だが、平和憲法で平和が実現できるのか。それが実現できるなら、全世界の国々がとっくに全員平和憲法を導入しているのであろう。

 世の中、誰もが反論できない「正論」が一番怖い。「正論」だからまさに正しくて非の打ち所がない。反論しようがないから、議論そのものが抹殺されてしまう。議論がなければ、実現不能で何ら実効性もない「正論」がまかり通ってしまう。実現不能の「最善」が、可能性を孕むすべての「次善」を殺してしまうほど恐ろしい犯人なのである。

 真の正論とは、きれいごとや美辞麗句を並べ立てるものでもなければ、大義名分を担ぎ出すものでもない。反論を受け入れ、しかるべき論理的な議論や検証を得てそこから導き出される結論であって、しかも実施可能で実効性が期待できるものでなければならない。

 「みんなのため」「会社のため」……。やたらこの類の美辞麗句を口にする人には要注意。彼(彼女)たちが語っているもっともらしい正論は、本当に正論であるかどうか、まず論理的な検証と推敲を加えよう。

 1つの例をあげよう――弱者の正義。

● 「弱者の正義」

【正論】「戦争は絶対にしない、絶対平和!」(これは、間違いなく正論)
           ↓
【仮説1】「だから、戦争を放棄する」
           ↓
【仮説2】「では、日本が戦争を放棄しても、他国から戦争を仕掛けられたら?」
           ↓
【仮説3】「日本国憲法では『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して……』となっている。だから戦争を仕掛けられることはない。
           ↓
【仮説4】「日本国憲法は世界憲法ではない。すべての諸国民は公正と信義を確約するのか」
           ↓
【仮説5】「だから、戦争を放棄して、他国に信頼するのだ」
           ↓
【結論】 「弱者になり、強者を含む他者の善意と自律に信頼し、強者が弱者を苛めないことに賭ける」

 完璧な「弱者正義」の論理である。しかし、現実の世界は「弱肉強食」の世界であり、皮肉なことに、戦争がまさにもっとも典型的な「弱肉強食」ではないか。

 「弱肉強食」に否定的な日本人が多い。これは倫理観的なものではあるが、残念なことに、「弱肉強食」は変えられない現実であり、生物の起源と進化を裏付ける自然の摂理に由来し、いわゆる本能的なものであり、ある意味で「弱肉強食」は「生存の正義」といってもよかろう。

 弱者になることは、他者を虐める能力と、他者の虐めへの対抗力を同時に失い、放棄することである。他者を虐めないことは、戦う能力をはく奪する必要もなく、それこそ、「平和を愛する諸国民の公正と信義」さえ持てばよい。日本国憲法では「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して……」となっている。この「諸国民」には、まさか日本国民だけが内包されていないことはなかろう。ならば、「日本国民が強くなっても、弱者を苛めることは絶対にない」と自信をもって、胸を張って、世界に宣言できるのだろう。

 会社経営においても同じ原理である。「会社の利益と発展の実現に、全従業員の忠誠と信義に信頼して、会社は解雇権も人事権も放棄する」。――これでよいのか。

 そもそも、中国の現行労働法は、企業のことを「強者」、労働者のことを「弱者」と位置づけ、しかも弱者正義の元で弱者への過度な保護を行い、すでに労使の強弱関係を逆転させているのである。皮肉にもコンプライアンス(法順守)すればするほど会社が弱者化する一方である。

 すでに弱者化された会社は、その自覚を持つどころか、強者に変身した労働者を依然として弱者扱いにし、「見せ掛けの弱者正義」のもとで、会社は慢性自殺をせっせと進行させているのである。

 強くなることは、生存に関わることである。強くなって、自己防衛ができてこそ、弱者救済の余裕と力を初めて持つことができる。「弱肉強食」は不義ではない。「弱者正義」の絶対的存在もありえない。――これは、世間で唱和されている美辞麗句ではない。むしろマイノリティーであるがゆえに叩かれる対象にもなろう。けれど、私は言い続ける。

● 性悪説とは

 性善説の話が出ると、必ずその対極として性悪説が持ち出されよう。性悪説とは、紀元前3世紀頃の中国の思想家荀子が、孟子の性善説に反対して唱えた人間の本性に対する主張である。「人の性は悪なり、その善なるものは偽(ぎ)なり」から来ている。

 「悪」とは、「善」の反面であり、罪を犯す元として捉えられることが多いが、はたしてそうなのか。

 前述のとおり、本能である欲が悪の元とするならば、欲にも善欲があるのだから、欲の分類をしなければならなくなる。唯識仏教では、欲のはたらきに善、悪と無記(善と悪のどちらでもない)という3つの性(三性)に分け、善欲は精進して仏道を求める心であり、悪欲は貪として根本的に具わっている煩悩の1つとする。それが大乗仏教の思想が発展し、煩悩や欲があるからこそ菩提も生まれるという、煩悩即菩提という考えが形成され、欲そのものを全否定せず、一部肯定する考えもある。

 煩悩や欲という位置付けは短絡的に、「悪」に決め付けるのではなく、むしろ人間は様々な意味では「弱い」存在という程度の意味である。弱い存在であるが故に、人間は欲の抑制機能が働かず悪事ないし犯罪に手を染めることがある。

 性悪説はこのように、決して「人間を信用する、しない」という問題に直結するものではない。また、キリスト教における原罪とも根本的に異なる概念である。

 荀子は、人間の本性は欲望的存在にすぎないが、学問を修めることや教養の習得などの後天的努力により公共善を知り、人間の欲や本能的な部分、本性は根本的に変えられないとしても礼儀を正すことができるとして、むしろ、性善説同様に教育の重要性を説いた。

 このように、性悪説は決して性善説の対立面にあるのではなく、むしろ異なる視線から性善説を学説的に補完するものでもある。

 これらの説の根底に存在するのは、「性弱説」である――。人間は欲と共存する以上、弱いものである。

● 日本人の「人間性善説」と「法・理・情」

 日本では古代から神と人間の間に明確な境界線を引いておらず、独自の「人間性善説」を確立したのである――。人間は基本的に生れ付き善であり、神の心が人間の中に宿っているという考え方が取られている。

 日本人の場合、人間と人間の関係は契約そのものではなく、疑似契約的ないわゆる「信用」というものによって結ばれている。近代の契約社会になっても契約は決して重視されることはなかった。契約があったとしても、曖昧なものにしておき、妥協的なトラブルの解決法が主に用いられている。何が何でも、契約を杓子定規に持ち出すのが日本的な価値観とは言えない。もちろん、裁判に持ち込むことは極端に避け、話し合って問題を解決することが望ましいのである。

 グローバル化が進み、日本企業も海外進出を増やしている一方、このような「人間性善説」に根本的なモード切替えをせずに、海外に出てしまったのであった。

 「騙された」という日本人や日本企業の多くは、この「人間性善説」に基づいて無防備な行動を取ったことに起因している。人間なら善であるべきところ、そうではなかった事実が判明したとき、騙した人が悪い人になり、減点を行うのである。

 そこで再び「弱者の正義」の出番である。騙された被害者という弱者側に正義がつくのであって、いささか悲劇の主人公になり悲壮感に浸る。けれど、その時点になってほぼ救済する術がなくなっている。なぜなら、契約ではなく信用に基づく人間関係がいざというときにいかにもぜい弱であろうし、法的レベルの救済がきわめて困難になるからだ。

 平たくいえば、「法・理・情」というのは、3つ異質なレベルであり、一方的互換性しか持たない異なるOSのようなものだ。一方的というのは、「法→理→情」の一方通行が可能であっても、逆方向は通行できないことである。このため、「情」や「理」をベースとしたイシューで、いざある日、「法」のレベルに持ち上げて問題を解決しようとしても、それが法の基盤が当初から整備されていなかったため、解決できないのである。

 若干短絡的だが、換言すると、「法」が性悪説に基づき、「情」が性善説に基づくのであれば、性悪説から性善説への一方通行は問題ないが、逆に性善説から性悪説への逆方向通行はできないのである。そこで性善説は敗北を余儀なくされ、被害者に転落するよりほかない。被害者になってもなお、「被害者に正義あり」と固執していれば、風車に突進するドンキホーテのようなものになる。

● イスラム教の性弱説とは

 少し話題を変えて、イスラム教を見てみよう。

 イスラム教は、まずキリスト教同様、人間認識そのものは決して肯定的ではない。いやむしろ否定的である。

 イスラム教の人間否定は、そのままキリスト教の原罪意識と同一ものではない(原罪意識: 現代の西方教会においては、罪が全人類に染み渡っていて罪を不可避的にする状態の中に、全人類が誕生して来る状態を指す表現として理解される傾向がある)――。

 人間の本性は汚れなき(善悪なき中性的な)ものであり、そのまま罪を犯さないでもいられるのである。しかし、人間は弱いもので、欲という本能や様々な誘惑に負けることもある。そのときは善でなくなり、悪という側面が顕在化するということである。

 ムスリムは酒を飲まない。「飲むなら乗るな、乗るなら飲むな」という日本式のルールよりもはるかに単純明快――飲むな!アルコール禁止。であれば、飲酒運転や酔っ払い運転もなくなる。人間は弱いもので、1杯の酒を飲むとついつい2杯目3杯目といき、気がつけば酔払ってしまい、そこでいろんな問題を起こし、社会を乱すことになる。だから、飲酒禁止にしたほうが効率が良く、社会に有益である。

 女性は美しくセクシーだ。弱い男性を惑わすこともあって男女の乱れを引き起こす恐れがある。このため、性的誘惑を遮断するのがもっとも有効で、女性は顔や髪の毛を隠すベールを被り、体の曲線を隠す長い衣服をつけるようにする。

 いずれも性弱説である。

● イスラム教の天国でみる性弱説

 しかし、不思議なことがある――。

 イスラム教では、人間の死後はあくまでも一種の仮眠であり、その仮眠は最後の審判の日まで続く。終末を知らせる音が鳴り響き、天変地異が起こると、死者は仮眠(墓)から甦り、すべての人間が集められて、アッラーにより最後の審判にかけられることになっている。そこで、現世での生き方を裁かれ、生きている間の善行と悪行が秤にかけられて、来世において天国へ行くか、地獄へ行くかが裁決されるのである。

 イスラムにおける天国は、生涯善行を積み上げた信者が死後に永生を得る所とされている。クルアーン(コーラン)ではイスラムにおける天国の様子が具体的に綴られている――。天国には、決して悪酔いすることのない酒や美味しい果物、肉などが溢れている。これらを好きなだけ楽しみ、フーリーと呼ばれる永遠の処女と交歓することができるとされている。

 ――つまりは、酒飲みもセックスも人間の欲であり、人間がそもそも欲に駆られやすい弱い生物だということを、イスラム教はあっさりと認めているのである。だからこそ、来世における欲の放出、楽しみのために、現世は欲を抑え込み、我慢しせっせと善を行えということだ。一種の取引である。この取引の条件はまさに、人間の欲の放出というご褒美を積み上げる善行で引き換えるというものである。このため、将来における天国での物質的快楽、欲の放出の描写がジハードを推し進める原動力となっているという指摘もある。実際に過激派組織が自爆テロの志願者の募集にあたって、このような天国の描写を用いている場合が少なくないとされている。

 人間はいかに弱いものであろう。

● イスラムの日常生活で見る性弱説

 私はマレーシアというイスラム国家で生活して1年以上経った。当初の間、日常生活でもっとも戸惑っていたのは、この国特有のスローさとルーズさ。いや、必ずしもこの表現は妥当とは言えない。

 ある日のこと、家の設備に故障があって業者を読んだ。午前10時という約束だったが、午後1時になっても一向に業者が現れないので、電話を入れる。

 「あのう、午前10時に来てくれるという約束でしたよね……」
 「ああ、そうでしたね。ごめんなさい。忘れてしまいました」
 「えっ、何で忘れるんですか」
 「それは、人間ですから、物忘れはしますよね」
 「えっ……?」
 「すぐに用意していきますから、待ってください」

 待つこと3時間、一向に姿が現れない。もう一回電話する。

 「すぐ来ると言ってましたよね、もう夕方じゃないですか……」
 「ほらっ、出ようと思ったら、激しい雨が降り出したでしょう。したかないじゃないですか、今日はもう遅いから、明日午前中に行きます」
 「えっ……?」
 「では、明日ね」

 日本では考えられない業者の対応だが、マレーシアでは当たり前だ。

 1回目の問題は、「物忘れ」。「物忘れ」は確かに人間ならだれもがありえることだが、だからこそ、忘れないように手帳にちゃんと記入するのだろう。おそらく今度、「手帳だって見忘れることがある」という回答が返ってくるのだろう。要するに、人間は全能な神様ではない。人間は人間で弱いからこそ、物忘れするのだという論理である。

 2回目の問題、「急に雨が降り出した」。これはもはや、神の意思であって、「もう今日は出かけるな」と言わんばかり。人間は神の前ではいかに弱い存在で自分の意思ではどうにもならない。それよりも素直に神の意志に従うべきであろう。

 「はい、明日○時に行きますよ」というのは、あくまでも約束を交わす現時点の人間の意思表示に過ぎない。「私はそのつもりでいますが……」。その後、事情が変わることもあろう、そもそも人間は弱いもので、周りに発生する些細な出来事でもすぐさまに「不可抗力」と化することもあろうし、また神の意志があれば、それに従うよりほかない。

 まさに性弱説そのものである。そうか、人間は弱いものだ。だから「無理」を言わない。この論理を理解した私は現在、少なくともマレーシアではあまりいらいらしなくなった。もちろん、「スロー」や「ルーズ」も言わなくなった。

 家の修理なら1日遅れでまだしも、もっと重要なこととなると、このままでは絶対に困る、と思いませんか。ご心配なく、本当に重要なことなら、「契約」という方法がある。

● イスラムの契約制度で見る性弱説

 結婚のような重要なことなら、契約する。ムスリムの結婚は、契約制である。

 通常なら、結婚式で男女が「永遠の愛」を誓い合うが、イスラム教は違う。恋愛中熱々だった愛情は一生続くとは限らない。人間は弱い生き物であるからだ。後日夫婦間に何らかの問題が生じ、トラブルに発展し、いよいよ収拾のつかないところまで来ると、婚姻関係が継続できなくなる。そのときになって裁判所に行き、離婚騒動で司法資源を無駄使いするよりも、いっそう結婚当初に契約を取り交わしたほうがよい。いざ離婚するときの条件を具体的に取り決め、それを文書にしておくのだ。ムスリムの結婚は、書面の契約書がつきものだ。

 シャリーア(イスラム法)の家族法では、結婚は男女の間で締結される契約であると明文規定されている。結婚時に男性から女性に支払うマハル(結納金)の額も、離婚のときに支払うマハル(離婚金、手切れ金)の額もすべて取り決められ、契約書にちゃんと盛り込んで新婦、新郎そして立会保証人がサインし、これをもって契約が成立する。

 マハルとは、婚資金といって離婚時に備えた保険の役割も引き受けているのである。そもそも結婚も一種の社会契約だ。夫婦という社会的関係に関して、そもそも男女の双方が死ぬまで愛し合えるほど強い人間ではない以上、あるいはこのような強靭な夫婦相愛の関係に何ら担保もない以上、契約を取り交わした方が合理的だという考え方である。

 見て分かるように、イスラム教における契約制度と契約観においては、その根底に性弱説が流れている。人間は弱い。欲もあるし、欲に負けたり、いい加減になったりすることがあって当たり前。だからこそ、重要なことはきちんと契約を結ぼうと。

● 性善説、性悪説と性弱説

 このようにみていると、次の結論を導き出すことができる。

 性善説も性悪説も、決して矛盾しているわけではなく、さらに探索していくと、両者の根底に流れているのは、「性弱説」である――。人間は欲と共存する以上、弱いものである。

 そしてある意味では、イスラム教の性弱説はもっとも素直に人間の真実の姿を描き出しているのではないだろうか。

● 自律と他律、勧善懲悪の原理

 どの宗教も、善に誘い、義を薦める。逆にいえば、人間が生まれつき善や義の塊であれば、本能に駆られ自然に善をなし、義を行うことになり、神も宗教も要らなくなる。しかし、そうではない。人間は弱く欲に駆られ、悪に走ることもある。そこで善の助長以前に、悪の抑止機能がなければ、善よりも悪が前面に出てきたりすることもある。欲や堕落のほうがよほど快楽であるからだ。だから悪の抑止機能が必要だ。その悪の抑止機能は大きく分けると、自律と他律という2つになる。

 法律というのは明確な他律である一方、宗教は基本的に倫理面における自律を中心に創られたものだが、他律も混在している。中でもイスラム教はシャリーアというイスラム法、独自の法体系まで形成させ、宗教警察や宗教法廷まで設けた厳格運用の国(筆頭にサウジアラビアやイランなど)も存在する。

 繰り返しになるが、宗教そのものが悪の抑止機能であれば、それ自体が性悪説、あるいは性弱説をベースにしたものでもある。つまりは、悪の抑止があっての善の助長、それが勧善懲悪の原理である。

 前述のとおり、イスラム教は、現世の忍耐や善の行いによって来世の天国入り、永生の幸福を手に入れるという取引(契約)を前提にしている。酒や果物、肉などを好きなだけ楽しみ、フーリーと呼ばれる永遠の処女と愛を交わす事など、まさに食欲や性欲、人間の欲そのものを是認することを前提にしている。

● 不確実の来世よりも確実の現世、中国社会の現実

 永遠の享楽を得るための現世の善、功利主義的に見えても、結果論的に社会の秩序の見地からすれば、宗教は社会に欠かせないシステムの1つといえよう。宗教そのものを失ってしまった社会、中国を見れば深く納得させられてしまう。

 つまり、金銭、欲望への無限の追求、という人間がもつ原始的本能が抑制されることなく、欲が大放出されてしまっているのが中国社会である。最近の報道を見ると、腐敗の高官たちの自宅を捜索すれば億元単位の現金や金塊が出てきたり、数十人もの美女を囲い込んで享楽を極める光景は、コーランに出てきた天国にそっくりではないか。

 不確実の来世よりも、確実の現世。これがこの人たちの倫理観ではないだろうか。この倫理観はすでに中国の大地に浸透し、人の心の土壌をことごとく侵し、毒したのである。正義感をもつものは正直者が馬鹿を見る場面も、コンプライアンスに取り組む順法コストが違法コストより高い場面もしばしば見られる。

● 「害人之心不可有、防人之心不可無」

 このような状況に直面し、われわれ日系企業の経営は従来のいわゆる「人間性善説」を用いて良いのだろうか。答えは明らかに「ノー」である。

 厳しい就業規則や緻密な労働契約に対し、従業員は、「会社はなぜ、われわれを信用しないのか」と戸惑う場面がある。

 これは、「情」に訴えているのである。これに対し、単純な「人間性善説」で考えれば、「そうだ、社員はみんないい人ではないか、彼たちを信用するべきだ」という回答が妥当する。前述のとおり、「法→理→情」の一方通行が可能であっても、逆方向は通行できないのである。「情」や「理」をベースとしたイシューで、いざある日、「法」のレベルに持ち上げて問題を解決しようとしても、それが法の基盤が当初から整備されていなかったので、解決できないのである。

 会社経営という厳粛なミッションを背負う経営者として、経営現場で「情」をベースとした手法を使うのは無責任としか言いようがない。さらに、従業員側の立場に立ってみることにしよう。

 会社:  悪いことをしたら、処罰します。
 従業員: なぜ、我々を信用しないのですか。
 会社:  あなたは悪いことをしますか。
 従業員: もちろん、しません。
 会社:  では、悪いことへの処罰を恐れることはないでしょう。
 従業員: ?……

 悪いことをするつもりもないのに、なぜ悪いことへの処罰を恐れたり、嫌がったりするのか。人間は弱いもので、ついつい欲に駆られ、誘惑に負け、してはいけないことをしてしまうことがある。このことを知っている人間(従業員)は、そのリスクを排除したい動機があるからだ。

 まさに「性弱説」を裏付ける事象である。

 人間を信用、信頼する条件とは何か。長い付き合いの歴史から積み上げられたクレジットがあるとすれば、後日採用する新人には当然そのようなクレジットがないわけで、何を材料に信用するのか。さらにいえば、たとえクレジットがあったとしても、過去はあくまでも過去であって、将来を裏付けるものではないし、人間に影響を与えうる要素があまりにも多く、人間そのもののぜい弱性も繰り返し述べてきた通りである。

 「害人之心不可有、防人之心不可無」

 ――「他人を陥れようなどと考えてはならないが、他人から陥れられないよう警戒心を失ってはならない」。中国人の処世訓である。日本人の経営者はこれを無視して良いのだろうか。自己防衛の本能と防衛力を身に付けることをなくして、中国でのサバイバルはできない。

 「人を見たら泥棒と思え」ではなく、「たとえ泥棒がやってきても、被害に遭わない」自分を作り上げればそれで良い。生れ付きの泥棒はいない。どの泥棒も初犯で犯行をした瞬間までは普通の人間だった。弱い人間でついその弱い自分に負けて泥棒になったわけだ。これが性弱説である。

 中国の経営現場では、「性弱説」を取り入れよう。

● 「人間性善説」はこうして組織を破壊していくのだ

 私がこの8年間一貫して提唱してきた「3階建人事制度」は、まさに性弱説を基軸にしている。そこで導入済みで正常に運営されている数十社の日系企業では、従業員による悪性事件や会社による解雇難航事件は1件も報告されていない。

 逆に私のところに相談を持ちかけてきた人事労務紛争は、ほぼ全数「人間性善説」的な企業管理制度や管理姿勢に由来している。たとえば、冒頭で述べた日系A社のBさんの紛争事件もその典型的事例である。

 在職中に何ら問題もなく、しかも円満退職したBさんは、退職後に突然会社を訴えた原因は何だったのだろうか。その発端は恐らく、退職後ある偶然の機会に、法令と会社制度のスキマ、不備を発見したことにあったのだろう。もともと良い従業員だったのに、ついに金欲しさという誘惑に負け、会社に不義の訴訟を提起した。

 どんな良い人でも、あるとき本性の弱さに負けることがある。その時、A社の制度や管理体制が性悪性、あるいは性弱説に基づき、隙間のない緻密なものだったならば、おそらくBさんも提訴を考えないだろうし、A社とBさんの関係は永遠に平和で円満なものであり続けたのだろう。

 これだけではない。Bさんと同様な状況にある在職従業員はあと複数名もいる。Bさんが勝訴すれば、その複数名の在職従業員も弱い人間であれば、欲に駆られ、会社に不義の要求を突き付けてきても不思議はない。社内の平和がそれで崩壊し、組織文化にまで亀裂が入れば取り返しのつかない悪果になろう。

 「人間性善説」は、こうして組織を破壊していくのだ。

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