あなたが自身のために何ができるか、新年の挨拶に適さない挨拶

 新年明けましておめでとうございます。

 「米国民の皆さん、国があなたのために何ができるかを問うのではなく、あなたが国のために何ができるかを問いなさい」。ケネディ米大統領の就任演説の一節(1961年)。

 「日本国民の皆さん、国があなたのために何ができるかを問うのではなく、あなたが自身のために何ができるかを問いなさい」。パクリで申し訳ないが、立花聡の2015年の新年挨拶としたい。

 幸福が歩いてこない時代になったのである。国や会社、他人が助けてくれない時代になったのである。弱者優位の時代が終わったのである。日本国民の一人一人が依存心を放棄しそれを捨てて、自立心と自助心そしてサバイバル力を身につけて初めて生き延びる機会を手にすることができる、こんな時代になったのである。

 「サバイバル力の強化とは、弱肉強食の是認に他なりません」という読者の反論があった。大変失礼だが、このロジックでいけば、「ドアに鍵をかけるから、泥棒の窃盗を是認すること」になりますか。

 私は職業観的にも人生観的にも「サバイバル力」を重要視しているのは、サバイバル力を放棄しても弱肉強食がどの社会からもなくならないからだ。弱肉強食は自然の摂理であって、人間を含む動物生まれつきの本能であって、これは好き嫌いにかかわらず存在し続ける。特に、限られたリソースに増加の見込みがないなか、弱肉強食の現象がますます顕著になる一方であろう。これはまさに今の日本の写実である。よほど歴史的なイノベーションがない限り、日本国のリソースが増えることはあるまい。そこで、日本国民の普遍的な依存心がまさにこの歴史的なイノベーションの最大な阻害になっているのである。

 自分自身のことさえ助けられないことは、米国的な価値観、いや中国的な価値観で見ても大変恥ずかしいことだ。国が悪い、政治や政治家が悪い、社会が悪い。そのとおりかもしれない。他人が悪いから、自分が生き延びることができない、自分や家族を幸せにすることができない。これはどういうことかというと、自分や家族の運命を他人任せにしていることであって、これほど無責任なことは世の中にあっていいのか。

 「あなたのことを絶対に幸せにしてみせる」。このような誓いをしたことはないだろうか。この告白と誓いには、「国や会社といった他人の状況次第、この限りではない」という但し書きを付け加えていいものだろうか。

 「国を信じていた、会社を信じていた。裏切られた」。信用や信頼は、自己防衛力をしっかり持った上での「余裕の言葉」であって、無節操に濫用してはならない。サバイバル力や自己防衛力さえもたない人曰く「他人信頼」は、単なる「他人依存」でしかない。いかに蒼白無力であろう。

 どんなに大きな会社でも潰れる時代になった。会社が潰れても生き延びられる人間になればいい。会社が潰れないことを祈る時間があったら、自分自身のサバイバル力を鍛えよう。アベノミクスがいずれ失敗するだろう。そんなこと何の関係があるのだろうか。日本の経済が崩壊しようと、生き延びられるサバイバル力さえあれば怖くない。さらにいえば、日中ビジネスに糧を得ている人は常に日中関係で一喜一憂していないか、それも一つの依存症。日中友好がなくとも、たとえ反日が再来しても、日中戦争になっても、しっかり食っていけるサバイバル力を持っていれば何が怖い?

 気がつけば全財産を失っても、どん底から這い上がる力を持とう。これが、かけがえのないサバイバル力である。生存、自由ないし幸福を得るため唯一の保証される源泉である。どんな金銭的財産でも、社会的地位や名誉でも一瞬にして失うことがある。だが、サバイバル力は唯一の終身財である。

 国が悪い、社会が悪い、他人も悪い。いつまで批判しても非難しても何も変わらない。何が悪かを別としても、人間は自分の思うどおりにならないと批判するものだ。批判は必要だ。気分がすっきりする。ただしばらく時間がたつとまたもや憂鬱になる。すると、もう一回批判しよう。繰り返し繰り返し、来る日も来る日も批判して罵る。状況は変わりますか。社会を変えようと大志を持っていれば社会運動でも起こし、それに取り組めばよい。素晴らしいことではないか。それができない、やるつもりがなければ、せいぜい自分のため、家族のために何か現状打開策はないか、これを考えようではないか。行動を起こそうではないか。

 「国があなたのために何ができるかを問うのではなく、あなたが自身のために何ができるかを問いなさい」

 私が度々この手の話をすると、ブログを含めて周りから否定や反対の声がたくさんあがるものだ。私はただ自分が感じたことを、飾ることなく嘘や迎合することなく、そのまま伝えているだけである。新年早々、皆さんの気に障ったら深くお詫び申し上げます。

 立場や観点に賛同を求めるつもりも、フェイスブックのような「いいね」を求めるつもりも、まったくない。さらに信条や価値観、思考回路といった部分に基本的な相違があれば、議論は互いに時間の無駄なので省こう。まあ、立花という変わったやつがこういう変わった考えを持っているんだと思ってくれるだけで結構だし、あるいは立花は論破されたんだと思ってくれても構わない。

 あまり、新年の挨拶に適した挨拶ではないかもしれないが、どうか、「皆様には良い一年になるよう」よりも、良い一年にしよう!

コメント: あなたが自身のために何ができるか、新年の挨拶に適さない挨拶

  1. 人間も動物の一種で、「人間だけが動物ではない。」というのは思い上がりでしょう。アメリカ・ロシア・中国の行動は「弱肉強食」そのものではないですか?日本の政治家の行動も・・・。もちろん「ノブレスオブリージュ」の考えも必要だけれど・・・。

    1. Hiroさん、課題提示ありがとうございます。「ノブレスオブリージュ」は面白い視点ですね。明確な階級区分のない社会では、上位階級者が負担すべき「義務」よりも、一般論の「権利」化してしまう傾向があります。「ノブレスオブリージュ」という意味でのモラルの義務化がいま必要とされているのかもしれません(かといって階級化するわけにもいきませんので、ジレンマ?)

  2. 新年の力強いお言葉をありがとうございます。

    私は立花先生のサバイバル力を否定するつもりはありません。それどころか生きていく上で必須のものだと思っています。だから、全く交わるところがないとは考えていません。

    しかし、「強くなければ生きていけない、優しくなければ生きていく資格がない」という言葉があります。サバイバル力とは前半の部分です。立花先生は、前半の部分も後半の部分もお持ち合わせの方だと考えていますが、人を教えるに当たっては、なぜか前半の部分のみを強調なさっているように見えます。

    私はそれが不完全な人間を作り、強いては弱肉強食の社会を生み出すことにしかならないと考える次第です。

    「弱肉強食は自然の摂理であって、人間を含む動物生まれつきの本能」でありますが、この本能の思うがままになっては他の動物と同じです。人間が人間であるためには何が必要なのか。これが重要だと考えます。

    重ねて言いますが、立花先生ご自身は強さと優しさを兼ね備えた素晴らしい方だと認識しています。今年度も元気で頑張ってください。

    1. 板野さん、申し上げた通り、私の現時点の仕事柄、「強さ」強調の性質がメインです。より多くの「優しさ」をもつ余裕を得るためにも、まずは「強くなれ」というのは、私のコンサル現場での信条で、またこれに賛同してくれる顧客企業と一緒に頑張っています。

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