似非政治化する日本と、AIを見ないふりする国の正月

 1週間にわたって続いた、私に対するFBの「投稿以外コメント禁止」は、ようやく解除された。発端は政治的発言ではない。それにもかかわらず、世の中には「自分の政治的主張が規制された」と被害妄想に陥る投稿者が後を絶たない。水を差すようだが、今の日本で、本当に政治的思想を持って発言し、行動している人間は、ほとんど存在しない。

 FBは思想を検閲しない。検閲しても一円にもならないからである。規制しているのはイデオロギーではなく、広告モデルにとって邪魔な振る舞いだ。対立を煽り、集団で語り合い、通報を呼び、場を荒らす行動が嫌われているだけである。それを「自分の思想が危険視された」と語り出すのは、分析ではなく自己陶酔である。FBが読んでいるのは信条ではない。ログと利益である。

 イデオロギー原理主義者は、確かに存在する。思想のために孤立し、不利益を引き受け、生活や安全を賭ける覚悟を持つ人間だ。しかし、そういう存在は、少なくとも日本ではほぼ絶滅している。今SNSに溢れているのは、原理主義者ではない。思想を装った感情表出と、集団同調による自己承認である。コストを払わない思想は、思想ではない。ただの自己陶酔にすぎない。

 この自己陶酔の症状は、偽右にも偽左にも共通している。政治の問題ではなく、心理の問題である。政治っぽい言葉や記号を借りて感情を発散し、同じ気分の者同士でうなずき合っているだけだ。そこには原理も、体系も、責任もない。

 そして、この国の本当のみじめさは、ここから先にある。日本はAIという現実の構造変化を正面から見ようとせず、その代わりに、空洞化した政治ごっこに熱中している。AIが労働、意思決定、制度設計を根底から変えつつある時代に、思想なき右左遊びで感情を消費している。考えるべき対象から目を逸らし、考えているふりをする。この態度こそが、日本社会の現在地である。

 2026年の元日、言っておくべきことは一つしかない。日本に足りないのは「正しい思想」ではない。思想のコストを引き受ける覚悟と、現実の技術変化に向き合う知性である。それを欠いた政治化は、ただの自己陶酔であり、国を一歩も前に進めない。

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