日本の国家教育は、「資産」ではなく「年収」という概念を国民に刷り込む。2つの理由がある。
一つ、「年収」を目指す国民は、さらに「勤勉は美徳なり」という刷り込みも相まって、絶えず労働し続ける。「労働搾取」が永続化する。一つ、「資産」の蓄積を意識させずに、続々と新発売を売り出し、常に消費させ続ける。そこで「消費搾取」がまた可能になる。労働→消費→労働という再帰によって、二重搾取のループが完成し、特権階級の利益が拡大・持続する。
戦後教育は、労働を「生存の手段」ではなく「道徳的価値」として教えた。努力し続けること自体が善とされ、結果ではなくプロセスが崇拝された。だが、その「美徳」は生産システムの潤滑油として機能し、実際には「永遠に働く人間」をつくる装置となった。年収という指標は、そうした従順さを数値化し、競争意識によって自発的な服従を誘発する。結果として、人間は「稼ぐために生きる」構造へと収斂する。
国家と企業は、資産を持つ国民を恐れる。資産は独立を生み、独立は支配不能を意味する。したがって教育では、金融・資本・投資の知識を教えず、「貯金せよ」「節約せよ」とだけ説く。だが、貯金は資産形成ではなく、むしろ貨幣の価値を眠らせる行為にすぎない。一方で、メディアと企業は「新しい」「限定」「今だけ」と煽り、消費行動を道徳化する。「自分へのご褒美」という言葉は、もはや最も巧妙な洗脳語である。
労働で時間を奪い、消費で金を奪う。労働搾取と消費搾取の再帰が、「労働→消費→労働」の永久運動をつくる。この構造の恐ろしさは、強制されているように見えず、自発的に参加しているように感じる点にある。「もっと稼ぎたい」「もっと買いたい」という欲望が、支配構造の自己再生エネルギーとなる。
ヘーゲルは労働を通じて人間が自己を実現すると説いた。だが、現代では労働が外部目的に奉仕する限り、それは自己実現ではなく自己疎外である。所有とは、他者に奪われない「自己の時間」のことだ。だからこそ、「資産」を持つことは自由を取り戻す行為である。
AIが労働を代替する時代、年収信仰はすでに過去の遺物である。次の社会では、「労働しなくても尊厳を保つ」ための仕組みが必要になる。教育は、勤勉と服従を教える場から、「資産と思考の自由」を育む場へと転換されねばならない。日本の教育は、長らく「労働の宗教」として国民を統治してきた。だが、AI時代の真の教育は、労働の外にある自由を教えることである。
「年収」を捨て、「資産」と「思考」を取り戻せ。――それが搾取ループを断ち切る唯一の出口である。





