一分一秒も狂わず停車位置ぴったり、日本の電車が凄い?

● 日本の電車が凄い

 日本の電車は凄い。一分一秒も狂わず、ぴったりと停車位置に停車する。外国人がそれを見たら、みんな「日本人は凄い」と驚く。よく考えてほしい。外国人にできないことを、日本人がやっているのか?それとも、外国人がやらないことを、日本人がやっているのか?。

 コストがかかって、割に合わないから、やらない。それだけの話だ。

 電車のオーバーラン、数十センチくらいの停車位置ずれを直すために、「停車位置を修正します」と時間をかけてやる必要はあるのか。特に数分間隔で運行されているラッシュ時間帯にだ。人間のほうが移動すればすむことだ。大統領の車がレッドカーペットにぴったり停車するわけではないから。こういうことに執着する日本人は、良く言えば「職人的」だが、ただその程度は病的レベルに至っている。目的と手段を完全に間違えている。

 2005年4月25日に発生したJR福知山線の列車脱線事故では、乗客と運転士合わせて107名が死亡、562名が負傷した。事故はなぜ起きたのか。国土交通省の事故調査報告書によると、前の駅に停車するときにオーバーランをし、運転士は出発時間の遅れを取り戻すために加速し、列車がカーブに差し掛かった時に脱線したと。

 これだけのコスト(人命の犠牲まで)と教訓ではまだ足りないのか?「日本の素晴らしさ」のほとんど、コストがかかっている。綺麗な空気と水、きめ細かな行政サービス、安い物価、保障される雇用と老後、安全と安心、そして平和…。タダだと思っているのが愚民。その「素晴らしさ」の一つひとつ、国民は当然それらにかかるコストを負担しなければならないのだ。

 中国嫌い、という日本人が大勢いる。だったら、中国のサプライチェーンを切ればいい。アメリカの場合、中国サプライチェーンを切った場合、1世帯の生活コストは年間2500~3000ドル増になるという研究データがある。日本は、中国への依存度から考えると、おそらくその倍くらい、1世帯の生活コストは年間70~90万円増。それを受け入れる用意ができているのか?その経済力をもっているのか?

 好きも嫌いも、コストがかかる。これを理解できずに、ただ「日本は凄い」「日本人は優秀な民族」と自画自賛する人たちは、その自惚れぶりが、世界に笑われているのを知らないのか。日本人の恥を晒さないでもらいたい。

● プラットフォームゲートはあった方がいい

 電車オーバーランについて、Aさんから「プラットフォームゲートの場合、停車位置の微調整が必要ではないか」という反論がきた。「そもそも、プラットフォームゲートが必要か」と私が新たな問いを提示すると、別のBさんとそのAさんがそれぞれ異なる回答を寄せてくれた。

 Bさん「電車を使う社会技術として、接近時は電車から離れる、乗車したら中へ入り出口の流入の邪魔をしない…などを学んでから乗車すると。そういう社会性を学ばない、理解しないことを是とする風潮になってから、運行側も責任回避行動ばかり取るようになった。ゲートもプラットフォームのあのうるさいアナウンスも、効果がないにも関わらず、事故の責任回避なのだ。社会的契約概念の崩壊が原因である」

 本質の指摘である。これに対してAさんの答え「ゲート設置は、目の不自由な人にとってはありがたいことだろう」。笑うに笑えない答えだ。世の中、いちばん怖いのは、反論できない正論なのだ。最近の日本人は、息を吐くように正論を吐くのだ。

 偶発の事故ケースのためにいくらコストをかけるか、結局、繰り返してきたように、コストの問題だ。安全性や快適性を追求するうえで、上限がない。いくらコストをかけるかは、費用対効果を検討し、財布と相談し、その結果次第だろう。貧困化する日本にはどこまでの余裕があるのか、理性的な判断が必要だ。あらゆるコストは結果的に、国民・消費者の一人ひとりに跳ね返ってくるのである。

 まだまだ問題が多い。プラットフォームゲートの設置は、一部の駅に限られている。これは格差や公平問題にも発展しかねない。ゲート非設置駅での飛び込み自殺があったら、その責任は誰が取るのか。やはりコストをかけて設置しようではないか。コストさえかければ、何でもできる、いくらでもできる。非設置駅は、直ちに設置せよと。全国津々浦々の全駅に、ゲート設置を標準仕様にしようではないか。

 Bさんがこのようなコメントを寄せてくれた――。

 「コストがかかることを無視するという悪習がずっと続いている。学校では、お金のことを学ばせない。それどころか、お金のことを言うことを『汚い』と教え込んでいるわけだ。そうすることで、対価性を考えられない思考欠陥人間を生み出している」

 全くその通りだ。因みに、日本人の9割がAさん、わずか1割がBさんというのが現状ではないかと。

● 駅の安全アナウンスは必要か?

 「黄色い線の内側までお下がりください」という駅の安全アナウンス。列車がやってくる。下がらない場合の危険性を知らない人はいるのか?乗客の知性、いや、自己防衛の本能を馬鹿にしている。心理学博士の榎本博明氏はこう指摘する。「注意書きやアナウンスを過剰に行うのはむしろ逆効果だ。自ら考えて注意する習慣が失われ、思考停止状態に陥ってしまう」

 安全だから安心。安心だから油断。油断だから危険。逆説的な関係である。日本という安全安心国家の副作用がすでに顕在化している。その本質は、無責任さにある。駅はアナウンスしたから、安心。他人に対する無責任さ。それはまだしも、一般市民の思考停止は、自分に対する無責任さだ。

 日本人が騙されやすい。それは、悪は弱を狙うのが自然の摂理だからだ。悪が悪であっても、弱は決して善ではない。

 「駅の安全アナウンスは、視覚障害者にとって、有益かつ生死に関わる重要な情報だ」というコメントが寄せられた。私は、その方に以下回答した。

 「視覚障害者は、あなたのイメージしているほど、自分の安全を、他人任せにしているのだろうか。さらに、アナウンスのない国の視覚障害者は、バタバタとホームから線路に落ちて列車に轢かれて死んでいるのだろうか?視覚障害者の生存力と生命力を馬鹿にしないでほしい。それから、障害者が危険に直面しても、周り誰一人も助けようとしない、日本社会はすでにそこまで堕落したのだろうか」

 ある程度のリスクは、人間の思考力と生命力の強化に有益だ。なんでも安全・安心を求める日本人は、自由と機会を放棄し、自己奴隷化の道を行く。

● 無責任とは

 駅の安全設備・措置について。私の投稿に、「安全上、必要だ」とコメントし主張する人は、その意見に誰もが反対できない。安全や安心を求める。その上限はない。問題は、コストをどこまでかけられるかだ。安全・安心の主張者のほとんどは、誰もがコストの問題に触れようとしない。

 民間企業がやったら、コストは消費者に跳ね返ってくる。国や自治体がやったら、コストは納税者にのしかかってくる。値上げには反対、税金は払いたくない。一方、要求はエスカレートする。しかも、安全とか美辞麗句満載。その矛盾を意識しないのは、無知か無責任のどっちか、あるいは両方だ。

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