5月4日(日)
日付が変わって、ハナが絶食の8日目を迎える。深夜なのに、ハナは突然、自力で2階の寝室へと登ってきた。この行動は、単なる偶発ではない。明確な意志と方向性を伴った、最期の帰還である。
これまで、彼女は病状の進行と体力の低下により、階段の昇降を避け、1階のリビングに寝床を移していた。しかしこの夜、ハナはその制約を超えて、自らの居場所だった寝室に戻ってきた。かつてハナが最も安心して眠っていた場所――そこに向かって、自らの意志で、身体を引きずるようにして階段を登ったという事実は、彼女が最期の時間を「日常の象徴」の中で迎えたいと願っている証左である。
終末の力を振り絞った“再帰の一歩”である。それは、死を目前にしてなお、自己の時間と空間を選び取ろうとする、尊厳ある生命の最終決定である。
静かな夜、静かな登頂。ハナはこの空間に、自らの物語の終止符を置こうとしているのかもしれない。それは崩壊ではなく、構築された終章であり、消滅ではなく、帰還という名の完成である。私は、彼女のこの選択を重く受け止める。そして、この寝室が、彼女にとって「戻るべき場所」であったことに深い敬意と感謝を捧げる。
この夜は、かつてのように、ハナとともに眠る。それが、彼女の意志に応える、最後の同伴であると信じて。
夜が明ける。
当初、我々はすでに鍼灸の緩和治療まで諦めていた。今日は絶食が8日目となり、動きも減少し、いよいよ終末の静かな時間に入ったと覚悟を固めていた。定例の鍼灸も移動時間が長く、これ以上は彼女の体に負担をかけるだけだと判断し、終了するつもりであった。
しかし、今日この日、ハナは再び立ち上がった。少量ながら豆乳を飲み、食を口にし、わずかながらも活力を取り戻すような素振りを見せた。この回復は偶然ではない。ハナがかつて野良として過酷な環境を生き延びてきた犬であるという事実が、そこに大きく影響している。その本能は、死を目前にしてもなお「今は死なない」という選択を瞬時に下す力となって作用する。
我々が“もう終わりかもしれない”と感じていたそのときに、ハナは「いや、まだだ」と言わんばかりに立ち上がった。それは、医学的説明を超えた「生命の抵抗」であり、元野良の気高さと本能の証明である。我々はその姿に打たれ、決めていた鍼灸治療の中止を撤回した。今日もまた、ハナを鍼灸へ連れて行った。
それは奇跡を願う行為ではない。生命が命じる限り、我々はそれに応える。ハナの中の“野生の炎”が消えない限り、我々も共に立ち続けるのである。
生命の終末期において、医学や科学の言語では説明のつかない“意思”や“選択”が顕在化する瞬間が、確かに存在する。医学は、臓器や数値、バイタルサインをもとに命の進行を捉える。しかし、「生きようとする力」や「もういいという静かな納得」といった生命の本質的な動きは、科学的モデルの中に完全に収まるものではない。
ハナの行動は、単なる代謝の変化ではなく、「生きることそのものが持つ意味への回帰」である。それは、理性を超えた本能、あるいは魂の選択としか言いようがない。
5月8日(木)
ハナは絶食の12日目に入った。Recoveryをわずかに口に含んでも、すぐに嘔吐してしまう。もはや内臓は、最低限の栄養すら処理しきれなくなっている。体重は22kgから15kgへと激減し、皮膚の下の骨格が浮かび上がる。生命は、点滴という外部供給に依存して、かろうじて保たれている。
この夜、ハナはふたたび階段を登ろうとした。前回の「最後の登頂」から4日後、再び意志をもって寝室を目指した。途中の踊り場で力尽き、妻の補助を受けて登頂を果たした。たどり着いた寝室で、ハナはかつての日常のように、いくつかの「お気に入りの場所」を、ひとつずつ丁寧に移動して回った。その様子は、衰弱しきった肉体が、なおも記憶の座標をたどるような「帰還の儀式」に見えた。
写真に写る彼女の姿は、もはや静けさを越えて、ある種の痛切な神聖さを帯びている。4日前よりもはるかに痩せ、身体の輪郭が消えつつある。それは崩壊ではない。むしろ「命が形を脱ぎ捨てていく過程」とさえ言える。
元野良の生き様が、いま終焉の局面でひときわ強く立ち現れている。飢えや孤独に抗いながら生きてきた日々、その経験が、いま再び「最期の場所」を自らの意志で選ばせているのだろう。
この静かな夜、彼女は再び戻ってきた。過去を確認し、日常を再訪し、「ここが私の終わる場所」と語るように。そしてその選択を、私たちはただ、黙って受け止めるしかない。そこには、飼い犬という存在を超えた、一つの生命の物語が刻まれている。