ハナ、旅立ちの日――2025年5月10日(土)。
ハナは、この日、絶食14日目を迎えた。朝になって、ついに全身の力が尽き、起き上がることができなくなった。だが、昼を過ぎた頃、ハナは残されたわずかな力を振り絞り、ゆっくりと身体を起こす。そして、妻の介助で、庭へと向かっていく。
それは、「生きているうちに済ませておきたい最後の仕事」――そう言わんばかりの決意だった。ハナは、最後のトイレを済ませ、静かに身の回りを整えるようにそこに立ち尽くす。それはまるで、旅立ちの儀式だった。

家族が見守る中、13時前からハナの呼吸は急に浅くなり、間隔があき始める。しかしその目だけは、力強くこちらを追い続ける。まばたきもままならない瞳で、必死に私たちを見つめるその姿は、「なにかを伝えたい」という意志に満ちていた。私は心の中でそっと語りかけた。「もう話さなくていい。全部わかってるよ」
13時を過ぎたあたり、ハナは懸命に頭を上げようとする。体は動かないのに、魂がまだ、語ろうとしている。そしてその瞬間、途切れ途切れではあるが、力強い声が口から発せられる。
「アッ……アッ……」
呼吸とは異なる、明らかに「声」として出された最後のことば。それは断末魔でもなく、苦痛の鳴き声でもない。まるで、自分の旅立ちを宣言するような、堂々たる声だった。
声の意味は言葉にできない。けれど、私にはわかっている。「ありがとう」「だいじょうぶ」「さようなら」「愛してる」。そのすべてが、あの声に詰まっていた。
ハナは、最後まで「生きていた」。目をそらさず、家族を見届けながら、静かに、確かに、この世界を後にした。13時29分だった。
それは、死ではなかった。復活への旅立ちだった。
野良として生まれ、たくましく生き抜き、我が家に来てからは、家族の中心として、誰よりも優しく、誰よりも強く在ってくれた。病と向き合いながらも、自らの意思で最期の登頂を果たし、寝室へと帰ってきたあの日の姿は、一生忘れることができない。最期のときも、決して苦しまず、安らかで、穏やかだった。
ありがとう、ハナ。君が家にいてくれた日々が、私たちにどれだけの愛と学びを与えてくれたか、言葉では言い尽くせない。
またいつか、虹の橋の向こうで。