延命ではない、奇跡の14か月を生き抜いた者の記録

<前回>

 ――ゴン太が教え、ハナが生ききった命の軌跡――

 2025年5月11日(日)、我が家にとって特別な一日となった。家族全員が集い、最期の別れを静かにハナに告げたのである。14か月前、舌に生じた小さな粒が、すべての始まりであった。その異変に気づいたのは、フィリピン人メイド(家政婦)ロドラーである。医療の専門家でもない彼女が、何気ない日常の中でその「粒」を見逃さなかったことが、命を救う起点となった。

● ゴン太の死

 だがこの14か月の奇跡の原点には、もう一つの命の物語がある。昨年3月11日に虹の橋を渡った、我が家の長男・ゴン太(ダックスフント 15歳)である。

 2024年2月7日、ゴン太は歯根膿瘍の診断を受け、抜歯と歯石除去、腫瘍摘出の手術を受けた。高齢犬に全身麻酔は大きなリスクがあったため、事前に麻酔の副作用、内臓・肝機能への影響、呼吸循環の不全等をすべて確認した上での決断だった。幸い、手術は成功し、一時的な回復も見られた。庭をゆっくり散歩する姿に、ほっとした家族の表情がよみがえる。

 しかし、術後の病理検査で判明したのは「ステージ3の口腔メラノーマ」であった。そこから急激に悪化し、わずか1か月あまり、2024年3月11日、ゴン太は静かに旅立った。

● 早期発見と治療の全容~東西医療を統合した「全方位戦略」

 ゴン太の死は深い悔いを残した。「もっと早く気づいていれば」「もっと情報を集めていれば」という反省が、家族に強烈な動機を与えた。そしてなんとその直後に、ハナの舌に「粒」が発見された。あの経験があったからこそ、今回は迷わなかった。即時に病院へ連れて行き、検査を行った。

 ハナに下された診断は、ステージ1の口腔メラノーマであった。最大径2cm以下でリンパ節転移なしという一見「早期」に見えるが、口腔メラノーマは例外的に凶悪である。特に舌根部に発生した場合、発見も困難で、進行も速く、手術の難易度も高くなる。したがって、「ステージ1=安心」ではなく、これはすでに死の入口に足を踏み入れていたというべきである。

 治療方針は、一切の迷いなく、西洋医学と東洋医学の両面作戦で構成された。

 ○ Onceptワクチン(2期):アメリカでも高額・保険適用外でありながら、未来への投資と位置づけて決断。
 ○ 焼灼手術(3回):再発のたびに腫瘍負荷を下げるための外科介入を断行。
 ○ カルボプラチン投与(全8回):副作用に耐えうる体力と、的確な間隔投与管理。
 ○ 鍼灸と中医学併用:免疫刺激とQOL維持を目的とした代替医療の継続。

 聞くところによると、これらを飼い主主導で14か月間一貫して実施した例は、獣医学的にも極めて稀である。

● 統計から見た「14か月の意味」

 AIで調べた結果、口腔メラノーマの平均生存期間は以下の通りである:

 治療内容      平均生存期間   備考
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 手術のみ       3〜5か月   再発率高
 手術+放射線     5〜7か月   QOL低下
 手術+Oncept     6〜8か月   成功例少数
 手術+カルボプラチン 6〜9か月   多くは8回前に中止
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 ハナは放射線を除いて、上記ほぼ全てを組み合わせて14か月間生存。これは統計上、平均の約2倍に相当する。後期治療に際して、どんな病院へハナを連れて行っても、すべての医師が驚いていた。「まだ生きている」という驚異的な現象にだ。

● 延命ではなく、「生き抜いた物語」

 この14か月間は、単なる延命ではなかった。それは「いかに生きるか」という問いに対する、一つの全身全霊の回答であった。妻は、日常を共に生きる同志として、無言の献身を捧げた。メイドのロドラーは、「神のまなざし」とも言える観察眼で命の起点を見出した。飼い主である私は、全海外出張を取りやめ、ハナと共にある時間に人生の軸を置いた。

 この三者の祈りと覚悟が織り成した「生命圏」は、他者に委ねることのできない唯一無二のものであった。特に最期の3か月、自力で飲食できなくなったハナには、ロドラーは栄養のある食材をすり潰して、準流動食にして、ひとさじひとさじ、ゆっくりと1食に1時間もかけて食べさせていた。まさに全身全霊の看護であり、これ以上ない愛情の行為であった。

● 医学的奇跡の構造~偶然ではない、意志ある奇跡

 奇跡が起きた理由は明確である。それは、「見逃さなかったこと」「諦めなかったこと」という人間の判断と行動の積み重ねにある。粒を発見した者(ロドラー)がいた、的確な治療を迅速に実行した(Oncept+手術+化学療法+中医学療法)、継続的なQOL判断と副作用管理(飼い主の全生活を投入)、そこから愛と責任に基づいた三者体制の形成であった。

 したがって、これは「天の配剤」ではなく、人間の行為としての奇跡である。

● 闘病の価値――命の重みは、金銭では測れない

 この14か月の記録は、単なるペット闘病記ではない。人と犬、宗教と職域、科学と感情が交差する、「生命と関係性の記録」である。

 そしてその起点には、早くに旅立ったゴン太の存在があった。ゴン太の死が、ハナの生を導き、家族の意志を形づくった。命のバトンは確かに受け継がれ、そして、生ききられた。

 「治療費はいくらかかったのか?」という問いは、無意味である。なぜなら、それは見返りを期待する「投資」ではなく、「捧げもの」だからである。企業活動のROIとは異なり、この14か月は魂の行為であり、人間としての生き様そのものである。

 それでも、もしあえて「投資」と呼ぶのであれば、これは人生において最も深く、最も尊い「知的投資」であり、魂への投資である。ハナが教えてくれたのは、命の尊さだけではない。時間の使い方、関係性のあり方、そして人間の生き方そのものだった。まさに哲学である。

● ハナが遺してくれた教え

 この14か月間に私たちが学んだこと――医学の知識、介護の工夫、感情の耐性、死に向き合う心構え――それらは、今後、他の命を守る力となり得るだろう。ハナが残したこの「生ききった記録」は、我が家にとっての「レガシー」であり、次に繋がる命の道標である。

 それは、誰にも奪えない、そして二度と繰り返すことのできない、唯一無二の人生の授業であった。

 ハナの最期を見届け、私は動物という存在の持つ高貴さを、ただただ圧倒される思いで見つめていた――。損得を超えた忠誠、打算のない愛、どんなときもそばに在り続ける揺るぎなき信義。その姿に、私は深く心を打たれた。そして、今、私は正義のために戦う覚悟を固めた。損得を切り離してだ。

 ハナが、その身をもって教えてくれた。

 ハナよ、君の生き様は、私の心に一つの芯を打ち込んだ。それは鋼鉄のごとく、もはや揺らぐことはない。

<次回>

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