2025年5月12日(月)、ハナは静かに荼毘に付された。この日は偶然にも、釈迦牟尼仏の誕生、成道、涅槃の三大聖事を一日に祝う仏教最大の吉日、ウェーサク(衛塞節)にあたる。仏陀の魂がこの世に降り立ち、悟りを得、そして静かにこの世を去ったその日、ハナもまた、ひとつの生を閉じ、永遠の旅路へと歩みを進めたのである。
葬儀者の言葉によれば、この日は一年でも最も「縁起の良い日」とされ、清浄なる魂が仏の導きにより安らぎへと至るにふさわしいとされている。奇しくもその日に、ハナの肉体は炎に還り、その魂は、火と風に乗って空へと昇った。

その朝、ハナの亡骸を花で包み、家族が静かに見守るなか、兄のハチがそっと近づいてきた。彼女を乗せたベッドの傍らに立ち、「妹をどこへ連れて行くのか」と問いかけるような眼差しを向けた。ハチとハナ――この兄妹は、単に同じ家に暮らす犬たちではない。喜びも悲しみも共にしてきた、心を分かち合う存在であった。
ハチはその瞬間、別れの意味を理解したのだろう。言葉なき世界において、深い感情が交錯するその場で、彼はそっと鼻を近づけ、最期のキスを妹に贈った。それは、別離と愛情のすべてを込めた、彼なりの祈りであった。
午後、火葬を終えたハナの遺骨が帰宅したとき、ハチはその傍らに静かに座り、再び一言も発さずに見守った。その姿は、まるで仏前に座す修行僧のようであった。静寂のなかに、深い絆と尊崇があった。ハチにとって、ハナの不在は痛みであると同時に、魂のつながりを新たなかたちで感じ取る時間でもあったのだろう。

ハナが生きた生は、まさしく「慈悲」と「忠誠」の具現であった。言葉なき動物でありながら、彼女の眼差しは深い叡智と愛に満ちていた。病のなかでも、自らの苦しみに沈むことなく、最後まで家族への気遣いと静かな献身を忘れなかった。彼女の姿に、人間よりも高貴な在り様を見た。
そして今、ハナは仏陀と同じ日に、この世を後にした。その偶然は、単なる日付の一致ではなく、天が与えた贈り物であり、我々に残された象徴的な意味を帯びている。すなわち――ハナの命は、一つの小さな悟りを我々に与えてくれたのだと。
損得を超えた忠誠、打算のない愛、揺るぎなき信義。これらは仏教の核心たる「慈悲」の実践に他ならず、ハナはそれを生きて我々に示した存在であった。そしてその生の証人として、兄のハチが今、家族と共にその魂を受け継いでいる。
この日、我々はただ愛犬を失ったのではない。ひとつの尊き生き方を目の当たりにし、その旅立ちを通じて、「生」と「死」、そして「絆」の意味を深く問い直す機会を与えられたのである。
ハナよ、君の旅立ちは、偶然ではなく、宿命であった。その日を選び、君は炎とともに天へ昇った。仏陀の恩寵に抱かれながら。そしてきっと、今も兄のハチのすぐそばに在る――姿を変えて、心の奥深くに。