汚染水問題(13)~「無知」と「無恥」、君子危うきに近寄らず

<前回>

● 「無知」と「無恥」

 登山家の野口健さんが9月4日、自身のX(旧ツイッター)を更新。「中国は人民の健康を守る為に日本から海産物を買わないと宣言されたと」と書きだし、「『人民の健康を守る』と言うのは理由であるならば『中国の漁船は日本近海で漁業はしない』との理解でよろしいですね。『日本からは買わないが、自分たちは日本近海から魚をとる』では論理的矛盾が生じ、大義名分が崩れる」と批判した。

 確かに、指摘された事象は非論理的な自己矛盾だ。しかし、世の中、非論理的なことはたくさんある――。

 あんなに中国嫌いと言いながらも、貿易の4分の1が中国に頼っている国は、他にあるのか?海洋放出は科学的に安全性が証明されていると言いながらも、福島の現場を見せない、水を採取させない、検証させないとは?何より原爆で数十万人を殺されながらも、殺人国の飼い犬、手先、奴隷になるとは?

 スケールこそ及ばないが、魚獲りくらいは可愛いもんだ。

 SNSは、馬鹿発見機でもであり、恥晒し機でもある。「無知」は恥ずかしくないが、「無知の知」を持たないと「無恥」になる。そういういわゆる著名人でも、それこそ論理的な思考力を持たなかったり、しかも平気でSNSでさらけ出したりするのをみていると、他人ながら赤面してしまう。

● 君子危うきに近寄らず

 最近、マレーシアで日本人だと言ったら「可哀想な人ね」とされ、優遇されたりする。「お宅の政府、汚染水を流して国民のこと何も考えないんだから、親切にしてあげる」という感じだ。慈悲とは、そういうことだ。有り難い、有り難い。

 私の知る限り、日本の核汚染水の海洋放出に賛成するマレーシア人は皆無。彼らは「日本の海鮮は食べたくない」と言っている。彼らの論理をまとめると、概ね次の通りだ。

 ① 飲めるレベルの水を、飲むなくとも、陸上に撒けばいい。なぜ、海に出すのか?それは、リスクがあることを示している。
 ② だから、日本がやることは、他人にリスクを転嫁することだ。非常に不道徳だ。
 ③ 安全性が科学的に証明されたというなら、福島原発を公開して、第三者専門家の現場検証を受け入れればいい。なぜ、隠すのか?やはり怪しい。

 まったくその通りだ。汚染水(処理水)は、無害なら、海に流す必要はない。有害なら、海に流してはいけない。害の有無がまだわからないなら、それはリスクを他人に転嫁する、してはいけないことだ。

 海洋放出と他の選択肢、どれが良いか?複数の第三者専門家を現地に招き入れ、計測、検証、議論してもらう。情報を公開する。これが民主主義の手続的正義。民主主義国家の国民は、まず民主主義の基本を知ること。さもなければ、愚民になる。

 IAEAの調査は東電から提供された資料に基づいている。複数選択肢の検証はされていない。海洋放出には、推奨でもなければ保証もしないと声明している。日本政府と東電は、民主主義の透明性を無視し、手続的正義を失っている。それが問題だと言っている。

 科学、科学。日本人が最近やたら科学を唱える。科学とは、現在正しいっぽいものでしかない。ある科学が別の科学を否定するものもあれば、都合の良い科学だけ引っ張ってくることもできる。科学が外れたとき、為政者は「想定外」で片づける。まあ、科学には「想定外」がつきもの。「想定外」を想定するのがリスク管理である。

 君子危うきに近寄らず。

● 危うきに近寄れ

 先日、福島魚を食べようと盛んに呼びかける人がいて、なぜと聞いたら、「年だし、難病にかかっているし、何も怖いものなし。今の今を楽しめばいい」と。それは大変素晴らしい。いつ死んでもいい人は、それでいいのかもしれないが、しかしこれからの人生という若者層やまだまだ頑張りたい人に吹聴するのは、いかがなものか。道連れはやめてほしい。リスクの責任が取れるのか?

 福島魚。食べないことを勧めて相手から一時の快楽を奪う。食べることを勧めて相手に一生のリスクを負わせる。私は前者のほうが一日一善だと思っている。

<次回>

タグ: