年頭のご挨拶~≪特別レポート≫2012年の中国労働市場と企業のあり方

 2012年、新年明けましておめでとうございます。

 旧年中に皆様から賜りましたご支援、ご厚情に対し、深く感謝申し上げますとともに、新しい年の門出にあたり、ご挨拶申し上げます。

 今年の年頭挨拶は、実用性先行で特別レポート形式を取らせていただきます。中国労働市場の現状はどうなっているのか、なぜこうなっているのか、先はどうなるのか、企業にとってのリスクは何か、そして、企業は何をすべきか・・・、日々のセミナーやコンサル現場で皆様に申し上げていることを系統的にまとめたうえで、最新の情報と整理された観点も加え、2万文字強のレポートを作成いたしました。

 私が接している多くの日系企業では、中国における人事戦略や制度は抜本的な改革が欠かせないと考えているようです。私は両手を挙げて賛成しています。その理由、そして改革方向性の提案をより明確で分かりやすい形にしたいと考え、このレポートの作成に取り掛かりました。皆様の社内においてないし日本本社の担当幹部の方々にも情報を共有していただく主旨であれば、どうぞご自由に貴社内で転送していただいて結構です。

 中国の労働法制度はどんどん引き締めを強めている一方です。解雇の問題やら補償金の問題やら、今度は賃上げや労働組合、集団交渉・・・、中国の人事労務で苦労は尽きません。でも、乗り越えられない山場はありません。すでに成功事例も出てきています。皆様と一緒に英知と勇気を一つに集結して必ずサクセス・ストーリーを作ることができると私は確信しています。

 2012年はこのような一年にしたいと願っています。そうなると予感しています。皆様にとって実り多き良き一年となりますよう心よりお祈り申し上げます。

立花 聡
2012年元旦

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≪特別レポート≫2012年の中国労働市場と企業のあり方

● 中国は市場経済国なのか?

 毎年恒例の年頭挨拶は、ある種の予測検証の形に定着していた。昨年の年頭予測がどのくらい的中したかを検証し、さて今年はどんな一年になるかと次の予測を立てるのが慣例だった。しかし、ある意味で私の目に映る中国や中国経済、そして中国の労働市場は基本的に変わっていないともいえる。そのメカニズムがまったく変わっていないといってよいだろう。

 市場経済国の場合、経済を中心に予測する。非市場経済国の場合、政治を中心に予測する。――というのが私自身の暗黙のルールだ。さて、問題を提起しなければならない。中国はいったい市場経済国なのか、非市場経済国なのか。世界の大多数の承認をなくして(あるいは待ち状態とでもいうべきか)、中国は市場経済国ではない。少なくとも完全な市場経済国とは言えず、まだ市場経済国への成長途上にある、と私はこう認識している。

 このため、中国に関してはやはり政治を中心に、先行を予測する必要があると考える。

● 市場経済国承認は取引だ、功利主義原理は不動なる基準

 中国の温家宝首相は2011年9月14日に、欧州連合(EU)諸国が中国を市場経済国として認めることを望むと述べた。これに対して、中国の新華社通信は論説を発表し、「深刻な債務危機から救うため、中国は昨年(2010年)来、一部欧州諸国の国債を購入してきた」とし、「対照的に、欧州諸国が中国の市場経済国認定に関して、全く誠意を見せていないことは遺憾だ」と主張した。その上で「(市場経済国と)認める時期が早いほど、EUは中国への誠意を示すことになり、中国国民から一層の支持と友情を得ることができる」とした(2011年9月14日付、ロイター通信社)。

 さらに、中国の胡錦濤国家主席は2011年12月11日に、北京で開かれた世界貿易機関(WTO)加盟10周年記念式典で演説し、「市場経済国」としての認定を各国に呼びかけた。胡主席は「中国のWTO加盟と対外開放の拡大は13億の中国国民だけでなく世界各国の国民にも恩恵をもたらした」と強調し、今後5年間の輸入総額が8兆ドルを超えるとの見通しを示しながら、「関係国が中国を市場経済国として認定し、ハイテク製品の対中輸出規制を緩和することを希望する」と訴えた。(2011年12月12日付、毎日新聞)

 市場経済とは何か、その付与要件をいかに満たすかよりも、中国の場合は、他国へ与えた恩恵への見返りとして捉えている姿勢が鮮明になっている。国際貿易の中、「市場経済」そのものの中身よりも、「市場経済承認」という入場券の方がより多くの経済的利益をもたらす。このような場面が多々ある。その意味でいえば、「市場経済承認」を恩恵への見返りとして求めること自体が、一種の取引となりつつ、いかにも「市場経済」的であろう。

 効用至上――これは、経済成長の道を疾走する中国が抱える一つの原理原則である。この原理原則を一つの不動なる基準に据えていれば、中国のメカニズムが自然に見えてくる。様々な事象をその基準に照らして大きく外れることはまずない。

● 労働者の怒りの矛先は資本家へ、計画経済の懐メロを口ずさむ

 労働法令政策についても同じことが言える。国有企業が国家の大部分の資源と利権を独占している以上、民間部門から不満が噴出するのが避けられない。調和と安定を最優先課題として掲げる中国にとって、労働者の不満と憤りは何としてでも抑えつけなければならない。そこでもっとも誘導しやすい道は一つしか残されていない。それは、労使関係だ。厳格にいうと、「労使」よりも「労資」関係である。資本家の「搾取」ぶりを浮き彫りにすれば、労働者の怒りの矛先は自然に資本家へ向けるようになる。

 労働者の給料が上がらないのは、資本家が搾取しているからだ。企業は儲けすぎ、富の分配の不公平が貧富の格差の根源だ・・・。どれを取っても、一見納得させられるような論理に見えるが、事実はどうか。そのようなことは確かに存在するだろう。だが、それが唯一で根本的な原因なのだろうか。もう少し、論理的に検証する必要があるだろう。少なくとも、すべての資本家や企業がそのような悪ではないことだけは確実だろう。もし、すべての企業がそのような悪であれば、それは大変なことで、中国は早急に民営資本や外資資本などすべての非国有資本を国有化し、市場経済を徹底的に撤廃し、再び計画経済に戻した方が効果的だろう。

 しかし中国はそのような意図をまったく持っていないようだ。それどころか、逆に必死で「市場経済国」の地位を求めているのではないか。それは何故だろうか?

 市場経済は、計画経済に比べるとより多くの富を創り出すことができることを、計画経済の経験者であって被害者でもある中国は誰よりもよく分かっているからだ。この世の中には、平等な貧困があっても、決して平等な富が存在しない。計画経済下の平等な貧困を実体験した中国は、計画経済だけは二度と御免だと考えているのだろう。つまりは平等な貧困よりも、貧富の格差がまだましだ、いや、はるかに良いということだ。

 しかし一方では、貧富の格差と富の分配に起因するトラブルはある意味で、平等な貧困時代よりはるかに厄介で複雑である。そこで、大きなジレンマが生じる。市場経済はもう手放せない一方、市場経済それ自体が中国を困らせ続けているのだ。市場経済は、まるで小悪魔のモテ女のように手に負えない。

 どうすればいいのか。そこはいかにも中国らしい――。効用至上、功利主義的に考えると、市場経済と計画経済のいいとこ取りほかない。計画経済下の貧困はいただけないが、その副産物である社会の調和と平和が懐かしい。このような計画経済の懐メロをもう一度歌ってみたいと考える人はいまの中国で決して少数ではないはずだ。いや、むしろ増えることがあっても減ることはないだろう。

● 白猫も黒猫も、市場経済のゆがみは計画経済で補正する

 「白い猫でも黒い猫でも、鼠を捕まえてくれさえすればいい猫だ」。中国通なら、鄧小平のこの名言、「白猫黒猫論」を知らない人はいないだろう。毛沢東政権下で文化大革命に象徴される精神至上主義から、経済至上主義への転換を示すマイルストーンであり、今日の中国の経済発展は、鄧小平の先見の明をなくしてありえないとも言われている。その一方、これが後日の中国で効用至上の功利主義の主たる論拠の一つにもなりえたのだった。

 市場経済はベターであっても、それ自体が決してベストでもなければ、完璧なシステムでもない。そのうえ、そもそも非市場経済国の中国で、特に「中国特色」のある運営が行われると、様々な不都合が生じてもおかしくない。別の目線で見ると、「中国特色」自体も効用至上の功利主義そのものである。

 市場経済の歪みを、計画経済的な手法で補正する。これは通用するのだろうか。市場経済が「右」だとすれば、計画経済が「左」。右に方向を調整したところで不都合が生じると、今度急に左へハンドルを切る。すると、車体が大きく揺れ、ジェットコースターのように激しくぶれる。そう、中国の変化が目まぐるしいとよくいうが、ある意味で絶叫マシンといっても良さそうだ。

 計画経済というのは、自由市場に政府が介入し、あるいは自由市場を潰すことだ。極度放任の市場経済ではリーマン・ショックのような不意な事故も起こりうるので、政府の介入・調整ないし救済は欠かせない。その介入行為自体を否定するのではなく、介入の度合いをどう評価すべきかに大きな問題が存在する。どこまで自由市場に委ねるべきか、どこまで政府などの公権力が介入すべきか、どのくらいの強さで介入すべきか、これらを論証、検証しなければならない。市場は繊細である。だから、介入も節度をもって乱暴をしてはならない。だが、現状はどうだろうか。

 2008年に「労働契約法」が施行されてから、この4年間の中国の労働市場を振り返ってみると、公権力介入強化の一途をたどっている。中身を見ると前半と後半の二段階に分けることができる。前半では解雇制限の強化、本質的に個別労働者と企業の相対(あいたい)関係にとどまっていたが、後半、つまり直近の2年は、個別交渉や取引の問題が更なるエスカレートを見せながら、今度は賃上げ・福利を主たる交渉テーマとする集団労働者対企業の対峙構図が新たに浮き彫りになり、量的変化のうえに質的変化が重ねられ、平面から立体へと問題が多元化していく様相を呈している。

● 労働組合の結成は強制か?

 解雇の制限や雇用の保障は、あくまでも初期段階に過ぎない。一歩二歩へと踏み込めば賃金問題が新たに浮上する。賃金というのは、いくら中国といえども、経営自主権の領域に属し、企業専権事項となる部分が多く、公権力の直接介入に限界がある。この枠組みを取り払い、企業の普遍的賃金水準の向上を引き出すには、集団労働関係が鍵となる。労働組合や従業員代表大会制度といった仲介機能が欠かせない。これは、この2年に労働組合や従業員代表大会を主役とする集団交渉制度を規範する法制度や政策が次々と整備された背景にもなっている。

 多くの企業、特に日本企業を含む外資企業は、このような政策に対して極めて紳士的でやんわりとした拒絶の姿勢を示し、無言の対峙が随所に見られる。「労働組合の結成に会社は妨害しない」、あるいは「労働組合は労働者の意思で結成する組織なので、会社は特に音頭を取って結成する立場にない」といった意思表明だが、法的にも説明がつくし、もっとも理にかなっている対応でもある。

 しかし上層部労働組合からの圧力は半端ではない。嫌がらせに近いような頻繁な企業訪問などによって、日本国内の保険販売員よりもはるかに濃密な売り込み攻勢を強める地区もあるようだ。このような事案が多数報告されている。

 労働組合などの結成は、強制なのだろうか?そもそも原点に立ち戻ってみれば、労働組合の強制結成を企業に義務付ける法的根拠はどこにも見当たらない。さらに、集団契約まで官製版雛形の使用を強要する地区もある。もはや労働組合の結成は、官主導下の企業主導によって行われている。まさに世界でも唯一無二の奇抜な光景だ。「中国特色」といえばそこまでだが、効用至上の功利主義的産物ほかにならない――「官主導だろうと、企業主導だろうと、労働組合を結成してくれさえすればよし」。

● 誰が労働者の面倒を見るのか?「安居楽業」の神話

 計画経済時代は、総国有企業の時代でもあった。ゆりかごから墓場まで従業員の一生の面倒は企業、国有企業だからつまりは国が見る。貧しいが、みんな平等で文句を言える場面が少ないし、賃金交渉どころか、給料や待遇に文句を言っても一喝され、一蹴されるだけ。労働組合は、映画のチケットを配るほかに機能していないし、機能する必要もなかった。

 しかし、時代が変わった。いまの中国は資本主義と名乗らなくとも、一応、形式上市場経済が敷かれた国家なのである。市場経済とは富の増加やその機会の入手を意味するだけでなく、貧富の格差をも意味し、労働者が保障を失うことでもある。だが、問題はゲームのルール。全社会において均等の機会と公平な競争を前提としたルールさえ与えられていれば、才能や知恵、努力、プラス少々の運で百万の財や千万の財、あるいは桁違いで億万の財を手に入れる中国版ビル・ゲイツや中国版スティーブ・ジョブズが輩出しても、民衆は大きな声で文句を言えないだろう。しかし、現実は違っていた。怪しげな官民の結託で一夜にして大きな財を成したり、使途不明ならぬ源泉不明な収入を手にしたりする人間が続々と現れ、既得利益でがんじがらめに富裕層が形成している。これらを目の当たりにして民衆は到底承服できない。溜まりに溜まった怒りはどこかに向けて爆発させなければならない。とにかくガス抜きが必要だ。いまは気がつけば、資本家や企業がまさにその主たるガス抜きの一つにされているのである。

 「安居楽業」――平和な世の中を実現するために、民衆がもっとも必要とするのは、「住居」と「就業」だ。

 まず、「住居」を見ると、中国各大都市の不動産相場は、物価水準比でも賃金水準比でも、すでに日本や欧米をも凌駕している。デベロッパーと地方政府が結託してバブル作りで利益を上げ、一般大衆は受益者どころか、マイホームが夢のまた夢になっている。

 2010年後半から政府が一連の政策を動員して、必死になって不動産相場を抑え付けようとした。最近になってようやく一部の地域では緩やかな相場下落が見られるものの、マイホームは大衆にとってまだまだ高嶺の花になっている。販売不振でデベロッパーのキャッシュフローがそのうち持たなくなれば、不動産相場が一気に値崩れに転じると見る学者もいるようだが、多くの大手デベロッパーは国有資本やそれらしきバッググラウンドが絡んでいる以上、潰すわけにはいかないだろう。そのうえ、過度の不動産相場の下落では、大勢の不動産保有者の既得利益が損なわれ、彼らは資産価値の目減りで騒ぎ出す。これはまた異なる種の社会不安要素になる。総合的に見て、不動産相場の急落や大幅の下落は考えにくい。そのため、結果的にマイホームに大衆の手が届くような「安居」状態が実現する見通しは立っていない。

 次に、問題として上がって来るのは、「就業」である。「就業」について、二つの問題が内包されている。

● 解雇不能のメカニズム、新・計画経済時代突入の労働現場

 1つは、雇用。

 失業率の上昇は社会的負担増だけでなく、社会不安要素にもなる。とにかく、労働法制度や政策面では、解雇制限の更なる厳格化があっても、緩和することは基本的にありえない。コスト負担は当然、企業に転嫁する。2008年施行の「労働契約法」を筆頭に、一連の法制度の確立で、労働契約という私法領域(社会法属性ではあるが、契約関係における私法の性質を指している)に大規模の公法介入が行われた。

 注目すべきことがある。中国の無固定期間労働契約は、日本の無期雇用契約つまり正社員の終身雇用制度に相似すると言われているが、本質的な相違が存在することを指摘したい。

 日本の場合、民法上の契約自由原則に基づき、理論上労働契約の解除つまり解雇は任意に行うことが可能だが、現に司法実務上では解雇権濫用法理によって厳しい法的審査と制限がなされている。それでも、社会通念上相当な事由に該当すれば、解雇が可能だ。しかし、中国での解雇は法定事由によって要件を厳格に管理しているだけでなく、相当の立証義務をも使用者に課している。

 分かりやすく言えば、業績不良や勤務態度不良などいわゆる欠格従業員を解雇するには、その業績や勤務態度の不良状況を裏付ける証拠(主に書証)を提出しなければならない。もちろん、上司の目視観察や主観的判断では、証拠として到底十分とはいえないし、「労働紛争調停仲裁法」6条に基づき立証不能や証拠瑕疵によってもたらされる不利な結果(敗訴など)は、企業がそれを負担しなければならない。

 仮に、企業が多大なコストをかけ、完璧な立証責任を果たした場合(実務上、相当な困難が伴い、物理的に不可能に近いとも言われている)、かろうじて合法的に欠格従業員を解雇できるのだろうか。その答えは、理論上では「YES」である。しかし、従業員は容易に企業を相手取り仲裁を申立て、訴訟を提起することができる。現行法では、労働仲裁が無料化されており、労働訴訟も無料同然の低訴訟費制度が敷かれているからだ。これは労働者の濫訟を招く。結果的に、企業はさらに大きなコストを労働仲裁や労働訴訟にかけざるを得ず、「訴訟倒れ」の可能性が大きくなっている。

 経済的考慮から、企業は最終的に、欠格従業員などの解雇対象と示談交渉の道を選ぶほかない。つまり、金銭交渉だ。いわゆる「いくら出してくれるなら、辞めてもいいぞ」という強気、時々悪質な労働者に遭遇すれば、企業はなす術がない。中国の労働現場を見渡せば、この1年にはこのような事案が増える一方だ。

 分かりやすく言ってしまえば、「離職」というのは、すでに商品化している。一種のコモディティになっている。値付けされ、取引される商品になっているのだ。しかし一方、通常の自己都合による離職では、法的経済補償金が1元たりとも発生しないため、「悪」が得して「善」が損する、という道徳倫理上の善悪関係の逆転が起こり、結果的に善の萎縮と悪の助長にほかならない。

 日本の終身雇用では、欠格社員に対して社会通念上相当な事由によって解雇することも可能だが、多くの場合、実務上企業内の配置転換や降格・減給といったいわゆる人事権発動で対処している。一番大切なのは、企業に付与された広範な人事権は一種の強いけん制力になり、悪の抑止効果を発揮していることである。しかし現行中国法の下では、労働契約のいかなる変更も双方当事者の合意と書面手続を法定要件とし、日本式の企業人事権発動を不可能にしてしまっているのである。

 第1、無固定期間労働契約の法定締結要件、第2、勤務期間中の企業人事権発動の制限、および第3、厳格な解雇制限といった、「入口―経路―出口」の完全封じ込め措置によって中国労働現場の雇用制度が完全硬直化したといってよい。

 換言すれば、中国の労働現場では、実務上企業が欠格労働者を解雇する自由がほぼなくなったため、欠格者が淘汰される市場原理はすでに機能停止している。つまりは中国の労働市場は到底「市場」といえず、一種の新・計画経済時代に突入しているといって差し支えないだろう。

● 刑法廃止の「平和国家」と減給不能の「平和会社」

 もう1つの問題は、賃金。賃金問題を二つに分けて検証しよう。

 まず、減給の問題。

 「賃金」は、労働契約の必記事項として一旦契約に記載すれば、それを変更する場合は、労働契約の変更に該当し、双方当事者の合意と書面手続が必要となる。通常ならば毎年定例昇給がある。昇給も労働契約の変更である以上、法的には双方の合意と書面手続きが必要だ。昇給は通常企業側が提示しているため、労働者が黙認あるいは事後追認すれば、双方の合意が成立し、労働契約の変更要件は容易に成就する。

 しかし減給はどうだろうか。労働者が減給に応じなければ、労働契約は基本的に変更できない。企業が一方的判断と決定で減給を実施した場合、労働契約の変更が無効となる。つまり昇給ができても減給がほとんど不可能になっているのは、こんにちの中国の労働現場だ。

 「我が社では、減給するような事案はほとんど想定していないし、そのような従業員もいない」と豪語する総経理もいるようだ。それは素晴らしい会社だ。

 想像してほしい。とても平和で安全な国が存在する。その国の大統領がこういう。「我が国の国民はみな善良な国民ばかりだ。一人も悪い人はいない。だから、わが国では刑法を廃止する」。

 刑法は犯罪者を罰するためのものではあるが、それ以前に、悪の抑止手段であり、ひいては善を守るための担保である。企業の減給メカニズムの不在は、悪の抑止力の喪失にほかならない。もちろん、その総経理は「過去や現在だけでなく、将来についても我が社では決して減給対象となるような従業員は一人も現れないことを保証する」とでも断言できれば話は別だが。

 減給対象の有無も出現の可能性も重要なことではない。重要なのは、減給メカニズムそのものだ。いま、中国で運営されている日系企業のなかに、「我が社では、減給メカニズムが立派に出来ているのだ」と胸を張っていえる会社は何社いるのだろうか。

 降格も減給と同じ状況だ。従業員の同意と書面変更をなくして企業一方的降格措置は取れない。さらに、無固定期間労働契約締結者について、減給・降格メカニズムの喪失は何を意味するか、これはご想像にお任せしよう。

 減給・降格メカニズムの不在は、社内競争メカニズムの機能停止を意味する。前節で述べた、欠格者淘汰の市場原理の機能停止は、企業外部労働市場を指していうものである。欠格従業員を企業外に排出できない一方で、社内で減給や降格人事ができなければ、まさに内外二重の致命傷になる。この二重の機能不全あるいは機能停止は人間にたとえれば、新陳代謝機能の喪失にほかならない。新陳代謝機能を失った企業がどうなるかは容易に想像できるだろう。

● ルールなきストライキは企業内テロ行為化する

 次に、昇給の問題。昇給には、「自主昇給」と「受動昇給」に分けられる。

 「自主昇給」とは、企業の定例ベースアップや評価昇給を指す。「受動昇給」とは、労働組合などが経営陣に加えた外部圧力によって企業が受動的に行う賃上げを指す。

 発端は、遡って2年前。2009年12月の中央経済工作会議、そして2010年3月の全人代では、「所得収入分配の改革」が打ち出された。設備投資偏重や輸出依存による経済成長に限界が見え、息切れが危惧されるなか、内需型の経済成長への切り替えは不可避だとの政治的判断がなされた。内需のけん引となる個人消費を促進するために、国民の所得分配に対する調整の強化に中国は乗り出した。所得分配制度の改革を軸足とし、労働者の賃金比重を高める法制度や政策の制定と実施が始まった。

 具体的な施策については、▼労働者の賃上げメカニズムを法制度によって担保すること、▼経済成長や物価指数などマクロ指標の明確化と連動化、▼企業の経営情報の開示によるミクロ指標の明確化と連動化及び賃金原資の露出、▼労働組合や従業員代表による集団交渉制度の確立などが挙げられる。

 そうした中、「労働契約法」下の解雇難に苦しむ企業にとって唯一の活路だった賃金制度にも、総攻撃の包囲網が張られた。一連の賃金法令の法案化はいよいよ本格的にスタートを切った。経済成長や企業の収益に連動した賃上げメカニズムの確保がいざ法的義務化されれば、企業の人件費コストのみならず人事制度ないし人事戦略全体には計り知れない影響が及ぶ。全般的人件費コストの上昇だけでなく、欠格従業員は終身雇用で解雇も減給・降格もできないうえ、昇給までしなければならないという過酷なマルチパンチで、企業新陳代謝機能の低下・衰弱を招致し、深刻な事態に発展する。

 そして、現実はもっと過酷だった。2010年5月からホンダ中国をはじめとする全国規模のストライキは、賃金法令の成立と公布を待たずに、賃金上昇を一段と加速化、本格化させた。以来、ストライキあるいはサボタージュが慢性化し、中国全土規模、特に沿岸部の日系企業に蔓延した。

 もっとも恐ろしいのは、ストライキそのものでなく、中国式のルールなきストライキなのだ。ストライキといえば、労働組合が発動・組織するものであって、しかるべき労働条件の交渉が妥結できないときに事前通告をもって実行する集団労働争議・闘争である。しかし、世界の常識は中国の非常識。中国の場合、労働組合はストライキの発動機能を事実上有していない。1982年憲法改正の際にスト権が削除されており、スト行為自体の適法性についても法曹界では賛否両論が分かれている現状だ。

 このため、中国国内で確認されたストライキのほとんど(ほぼ全数といっていい)が、労働者自身が勝手に発動したいわゆる「山猫スト」である。前触れもなく(企業の事前情報サーチ問題もあるが)、突然にストライキを宣告し、突入する。無防備の企業にとってショックが大きい。さらに追い討ちをかけるのが、昨今中国の工場現場にも多く導入されている「カンバン方式」の生産である。このジャストインタイムの生産方式は、工程間の仕掛在庫を最小限に抑えることで、在庫減による究極の合理化を目指すものだが、ストライキに弱いという致命傷が明らかになった。最低1週間や10日の在庫しか持たない製造企業は、労働者に妥協するほか方法が皆無だ。

 「ストをやれば、会社は必ず昇給してくれる」。こう放言する労働者もいる。ここまでくると、ストライキはすでにストライキの常識やルールから大きく逸脱し、むしろ、企業によっては習慣性の賃上げ脅迫行動として定着しつつ、深刻な場合、一種の企業内テロ行為化する。

● 賃上げは法制度の担保と当局のお墨付きと支援を得る

 中国当局は基本的に、このようなルールなきストライキ行為を支持・支援しているわけではない。少なくとも沈黙を保っている。ストの目的がどうであれ、ストそのものが社会不安要素であり、政府の支援を取り付ける性質を著しく欠いている。そもそも中国国内少なくとも公式の場では、指導を受けたかどうかが定かではないが、メディアを含めて「ストライキ」の中国語「罷工(バーゴン)」という言葉がすでに死語になりつつある。労働組合のスト機能も認められていないし、スト権の憲法明文記載も控えられている以上、当然の結果だ。

 スト行為が支持されなくても、ストの目的である賃上げは、政府の意向に沿ったものであり、政府の支援に値するものである。前述の通り、共産主義を理想に掲げる中国は1949年建国以来経済的平等を中核とする社会主義・計画経済体制を取ってきた。いよいよ計画経済が破たんに向かうことが明白になった一刻に舵を切り、市場経済の導入に踏み切った。

 しかし中国で実施された市場経済は決して完全版の市場経済とはいえない。少なくとも資本主義体制下の自由市場諸国の目にはそう映っている。市場における国有経済の独占的地位によって、民間部門のパイが極端に小さくなっているうえ、公平で透明なゲーム・ルールも欠落している。いや、ルール・メーカーがゲーム・プレイヤーをも兼ねている。中国系メディアの表現を借りると、審判と選手の一人二役で試合が行われている現状である。

 一方では、不完全な市場経済体制に放り出された非国有部門の労働者たちが一瞬にして護送船団から切り離され、市場経済の競争下に置かれた。国有経済や官民結託をバックに自助努力に頼らずにして富を手に入れた偽の市場経済の「勝ち組」を目の当たりにして、労働者たちは普遍的に被害者意識を持たずにいられない。

 マイホームは夢のまた夢。安月給はいつまでも物価の上昇に追いつかない。老後の生活保障も怪しい。幸福度が一向に上がらない民衆は、怒りを爆発させようとしている。その怒りの矛先をどこかに向けさせる必要があったのだ。そこで、資本家や企業が容易にその標的にされ、一種のガス抜き的な機能を付与されたのである。

 労働者の所得が上がらないのは、資本家が搾取するからだ。ほら、労働者の賃上げがいつまでも企業の利益増に追いつかないのが何よりの根拠だ。この論理を正当化させることはそう難しくない。フォックスコン(中文漢字表記:富士康、電子機器EMS世界最大手・鴻海精密工業の子会社)の従業員連続自殺事件がやり玉にあげられ、いかに生々しい女工哀史の現代版であろう。

 賃上げをはじめとする労働条件の改善を企業に強く求めるべきだ。政府が音頭を取って支援の姿勢を明確にした。労働者にしてみれば収入さえ増えればいいわけだから、その収入がどこから入ってくるかは関係ないのだ。資本家や企業からもっと金を取りなさい。彼たちは儲けすぎだ。必要があれば、国は法制度を確立して全面的にバックアップする。これ以上ない都合のいい話だ。

 国は嘘をつかない。立法権を動員して法律を作る。早くも遡って2008年の「労働契約法」が実施した当時、周辺関連法として「賃金法(賃金条例)」の法案化がすでに進んでいた。しかし折悪しくも金融危機と重なり、企業がバタバタ倒れているときにとても賃上げどころではない。ちょっと待ったコールで「賃金法」は一旦棚上げされた。

 金融危機の嵐が過ぎ去った後、2010年夏頃に同年年末までに「賃金法」が公布されることを中国系のメディアが報じた。だが、それが実現しなかった。そして、「賃金法」はついに公布されることなく膠着状態のまま今日に至った。話によれば、同法の難産は決して民間企業や外資企業の反対圧力によるものでなく、国有企業に対する賃金制限条項が利益団体の猛反対を食らったためだという。これが事実であれば、国有経済の独占利権の強大さ、ひいては中国の不完全市場経済体制の実態を新たに証明するほかにならない。

● 「労働者の賃金は低すぎ、企業は儲け過ぎ」

 そして、「賃金集団交渉規定」。利権の調整で難航中の「賃金法」の代替版となる新法令の法案化が、着々と進んでいることが明らかになった。2011年11月10日付の中国系メディア報道によると、新法令は、企業利益増加率と賃上げのリンク・連動を基軸とし、賃金集団交渉を本格化させるものである。近年の賃上げ基調がますます鮮明になりつつあるなか、いよいよ2012年は賃金法制度によって「実力行使」の段階に入ろうとしている。

 法制度化の根拠が挙げられている。「労働報酬が国民収入に占める比率は42%弱と低く、しかも年々下降傾向にある。一方では、資本の収益率は逆に年々上昇している。だから、労働所得の引き上げは、歴史的趨勢であり、回避できぬ時代の流れである」と、政府メディアの「人民日報」が2009年12月3日付、論説を掲載した。

 同論説はさらに、具体的に指摘する。「我が国の第一次分配段階においては、労働者の賃金の伸びが企業の利益の伸びに追いつかない。これは普遍的な現象である。企業の富は明らかに資本側に偏在している。次のステップとなる所得分配制度の改革が鍵になる。これは、賃金改革を中核としつつ、第一次分配における労働所得の比重を引き上げ、従業員の賃金の正常な引き上げメカニズムと給付保障メカニズムを確立するものである。・・・(中略)先進国では、賃金が一般に企業の経営コストの50%ほどを占めるが、中国では10%にも満たない。労働報酬が国民所得に占める比重についても、先進諸国の平均である55%超に対し、中国は42%未満と非常に低い水準で徘徊(はいかい)しており、しかも年々下落している。一方、資本の収益率はどんどん上昇している」

 この論説に挙げられた一連の数字は何を説明しているのだろうか。労働集約型を中心とする、付加価値が相対的に低い中国の産業構造は今日もなお健在し、ある意味ではこれが依然として中国の「強み」になっていることを浮き彫りにした。だからこそ、政府が懸命になって産業構造のグレードアップを呼びかけているだけでなく、実質的な措置も着々と講じているのだ。その一つは、労働集約型産業潰し。殊に沿岸部の主たる地域では、労働集約型産業に対して「不歓迎」の姿勢を露骨に表明している。もう一つは、労働者の賃上げに政策的に法的に支援することだ。

 ただ、一つだけ中国が意識しているかどうか分からないが、低付加価値産業潰しが先か、それとも高付加価値産業の育成が先かだ。

● 古い鳥を追い出して、新しい鳥は生まれるか

 ここまで話すと、「騰籠換鳥」という成長戦略に触れずにいられない。「騰籠換鳥」とは、「籠を空け、中の鳥を取り替える」という意味だ。珠江デルタ地帯に起源した経済用語であって、伝統的な低付加価値・高汚染産業を内陸部その他の地方に移転し(古い鳥を追い出し)、ハイテク・高付加価値産業とハイレベル労働者・頭脳労働者を取り入れよう(新しい鳥を入れる)というものである。

 本文の冒頭で既述したように、効用至上の功利主義は、中国が抱える一つの原理原則である。鄧小平の名言、「白い猫でも黒い猫でも、鼠を捕まえてくれさえすればいい猫だ」という「白猫黒猫理論」が功利主義先行の代表格であるように、「騰籠換鳥」もまさしく功利主義の新たな実践である。経済発展は最重要だ。改革開放初期は低付加価値産業でよかったが、いまそれがダメになったから、取り替えればよいと。発想は正しいが、あまり性急な産業戦略だった。

 経済や社会の変革は必要だが、中国の場合、それが政治体制内にとどまらず広範囲の利害関係層に及んでいるため、一気に押し進むことに大きなリスクが伴う。何よりも、ハイテク・高付加価値産業は一朝一夕にしてできるものではない。労働力だって同じ。高度の熟練技能工やエンジニアは政策や制度に基づく長期の教育投資が必要だ。古い鳥は追い出したが、新しい鳥がなかなか生まれずに、籠だけは空っぽという最悪な状況になる。ちなみに鄧小平の「経済特区」構想が深せんで成功を収めた事例については、元々籠の中に鳥が入っていなかったことに気付く必要があるだろう。

● 「少なくても13か月分の賞与を払え」

 一方では、労働者の方では希望に満ちている。新聞やテレビが言っている。ネットももっとたくさん言っている。法律はできるし、政策も作られている。――賃上げはお墨付きで、確実だ。

 賃上げはよろしいが、問題は原資だ。原資は無尽蔵にあるわけではない。資源にはすべて限りがある。利益をどんどん出している企業もいれば、そうでない企業もいるわけだが、無差別の賃上げ法制度・政策の下でどうなるのだろうか。結果は一つ、労働者は右を見て左を見て上を見ては、下だけ見ないのだ。自社より高額の賃上げや賞与を出す他所の企業事例を引っ張り出して経営者に交渉を仕掛けてくる。

 2011年の師走に、例年のように各企業では上から下まで年終奨(年末賞与)の話題で持ちきり。そのときに各企業の人事部に衝撃が走る――。一汽フォルクス・ワーゲン(VW)で給与の27ヶ月分の年末賞与が出るというニュースが瞬時にネット上を駆け巡った。一部の計算方法によると、基本給に上乗せして支給される「双薪(ダブルペイ)」を含めると、同社では1年間で基本給の63ヶ月分の報酬が支給されることになる。

 「我が社では、27ヶ月まで行かなくても、その半分でさらに端数切捨てで、13ヶ月分のボーナスを出してください」。このような集団交渉を受けたら、総経理はどう答えるのだろうか。

● 労働組合全盛期へ、集団交渉全盛期へ

 北京市では、2012年から賃金集団交渉制度を本格実施することをすでに発表済み。2010年末の北京市総工会(総労働組合)の発表によれば、向こう3年で北京市の全企業に労働組合を結成させるとともに、組合をすでに結成済みの企業については賃金の集団交渉制度を全面的に実施するという。

 新華社通信の情報によると、北京市は労働組合の普及に向け、2012年末までに企業法人の組合結成率を90%以上、組合員率を92%以上に引き上げる目標を定めた。このほか、北京市は業界模範企業23社と地域模範企業32社で、労働報酬、労働時間、休憩・休暇、保険・福利厚生など従業員が関心を寄せる問題について、賃金の集団交渉制度を実施している。各模範企業で得られた成功例を活かして、市内のオフィスビルやビジネス街などへの応用・普及を進めるという。

 上海市では、2011年5月1日から「上海市従業員代表大会条例」が施行された。中国系メディアは、「条例」を企業の民主的経営・管理の進展におけるマイルストーンと讃える一方、従業員代表の職権強化に伴う企業経営への影響に強い警戒感を寄せ、揺さぶりをかけられた企業の間では不安ないし衝撃が収まらない。

 上海市の同条例では、従業員代表大会設立の義務化のみならず、労働組合の従業員代表大会(閉会期間中など)の常設機関としての位置づけを確定したことによって、実質上の(抱き合わせ的な)労働組合設置義務化とも受け止められる。

 国家政策を根拠とする賃上げメカニズムの確立は、不可避になっている。その中核的存在となる従業員代表大会制度と労働組合制度の機能に対する担保として、法制度の確立は必然的帰結である。つまりところ労働組合の結成も、従業員代表大会の設置も、集団交渉も、主たる狙いは一つ――賃上げ。

 そして、2012年以降は、中国経済がハードランディングに向かわない限り、賃上げ圧力は強まる一方だろう。法制度や政策の担保のもとで、外部介入はより強化され、範囲も従来の賃上げ制度の構築から交渉活動のディテールにまで浸透することも予想される。

● 先に豊かになった人は他の人も豊かになれるように助けようとしない

 本レポートのポイントをまとめると、以下になる。

 70年代後期から80年代までの中国は、「みんな貧しい」という均等貧困状況の脱出には、従来の計画経済体制の廃棄、市場経済の導入しか道がないことを知った。そこで、資本主義という名こそつけないものの、市場経済と銘打った独自路線、いわゆる「特色ある社会主義市場経済」の道を歩み始めた。

 鄧小平理論として、「白い猫でも黒い猫でも、鼠を捕まえてくれさえすればいい猫だ」という「白猫黒猫論」のほかに、「発展是硬道理」(発展することこそ王道だ)などの名言も知られており、いずれも経済至上主義を掲げた功利主義的な理論である。

 さらに、鄧小平理論を最もわかりやすく言えば、「先に豊かになれる人が豊かになり、豊かになった人は他の人も豊かになれるように助ける」というものである。しかし人間というのは、豊かになったら自ら他人に富を分け与えたり、既得利益を譲ったりして他人も豊かになれるように助けるものかというと、私欲の増大にきりがないという法則に照らして、明らかに問題がある。「他人も豊かになれるように助ける」という「善への期待」は必ずしも実現できないわけではない。かなり高度な道徳倫理の基礎を必要とするだろう。しかし一方、この種の「善への期待」は、経済至上を中心とした功利主義的理論と顕著な矛盾が生じていることを、鄧小平は気付いたのだろうか。その後の中国の経済成長の歴史によって、「善への期待」が水の泡になったことが実証されたのである。貧富の格差が拡大し、先に豊かになれる人は豊かになったが、他の人も豊かになれるように助けることをしようとしなかった。

 「善への期待」は外れたものの、功利主義の原理原則は今日の中国に根強く定着した。事物はまず価値という「量」の尺度で測り、社会の共通善や道徳倫理という「質」の尺度は副次的存在に転落し、往々にして軽視・無視されている。

● 労働市場は政府介入の拡大で計画経済化する

 90年代末期までの改革開放段階では、中国は安い労働力という絶大な優位性を発揮し、経済急成長のエンジンを全開させた。安い労働力は外資誘致に都合がよいが、一方労働者の権益を十分に重視したとはいえない。90年代半ばにようやく「労働法」が施行されたが、各地方では法の執行を徹底したとはとても思えない。労働者の権益よりも経済発展が最重要で、まず先に豊かになれる人が豊かになることが優先していた。これもひとえに効用至上の功利主義の原理原則の実践であり、何ら違和感もなかった。

 21世紀に入り、中国の経済発展はいよいよ佳境に入る一方、貧富の格差の拡大がとどまるところを知らずに進行していた。道徳倫理教育の欠如、信仰などによる社会共通善への認識の欠如、法治の欠如によって、官の腐敗や官民結託に起因する不正が氾濫し、自助努力によらず一夜にして百万長者の座に登りつめた人間が輩出するなか、民衆の不満が蓄積される一方だ。

 土地や不動産開発・売買によって莫大の財が一部の利益集団に偏在し、不動産バブルが形成し、不動産相場が急騰し続けた。物価比や給与所得比では中国、特に沿岸部主要都市の不動産価格は欧米水準を上回り、一般の民衆にとってマイホームは夢のまた夢になった。不動産相場につられて物価の上昇も凄まじい。高価なブランド品が飛ぶように売れている一方、生活苦を訴えたり、将来を懸念して消費を躊躇したりする市民が急増した。

 民衆の不満が社会不安要素だ。このような不安要素を低減し、取り除くために、民衆の不満を解消しなければならない。政府は不動産相場を引き下げるためにいろいろな手を打ち始めた。しかしこれは、土地の処分で収入を得ている地方政府の利益に相反するため、いずれ思い切った相場下落の効果はありえるのだろうか。

 マイホームの問題が解決できなければ、民衆の不満を和らげる方法として残る選択肢は、雇用の保障と所得増しかない。

 これを実現するために、政府は法制度や政策を総動員して労働市場に介入しなければならない。労働市場は「市場」としてその市場メカニズムに委ねる度合いが高ければ高いほど、「市場経済度」が高くなる。逆に、政府の介入、公法の介入が多ければ多いほど、「計画経済度」が高くなるわけだ。

 中国はそこで考えたのは、市場経済に生じる不都合を計画経済の手法で補正する方法だ。ある意味では都合よく、市場経済と計画経済両方からいいとこ取りという手法である。鄧小平の発言の一節を引用すると、こうなっている。「計画が多いか市場が多いかは、社会主義と資本主義の本質的区別ではない。計画経済イコール社会主義ではなく、資本主義にも計画はある。市場経済イコール資本主義ではなく、社会主義にも市場がある。計画と市場はともに経済の手段である」

 かなり功利主義的な論理である。これは今日、中国が市場経済国として認められない主因の一つでもあろう。単純に言ってしまえば、「市場:計画」の比率の問題だ。計画の比率があまりにも高ければ、到底市場経済国とはいえない。

 労働市場に限って言えば、特に市場よりも計画の比率が高いのは法制度の特質に起因する部分もある。労働法が社会法の部類に分類されているのは、労働者が弱者であって労使が対等の立場で契約を結び、履行することが難しいだろうという前提に立脚しているからだ。対等の立場での法律関係が成立しなければ、公正を失う可能性が生じ、社会的正義の実現が困難になるため、公法が私法領域に介入しなければならない。つまりは「市場」成分を引き下げ、「介入(計画)」成分を引き上げなければならないということだ。このような論理が労働市場への政府介入に強大な法理根拠を提供している。

● 「入口―経路―出口」の完全封じ込め措置と賃金の聖域化

 ついに2008年1月1日に「労働契約法」が施行された。この法律は労働者の権利保護という大義名分の下で、使用者に対して世界にも類を見ない厳格な解雇制限を課している。

 まず、入口。

 民法上の契約自由の原則が基本的に採用されず、その代わりに無固定期間労働契約の締結要件では、労働者の一方的意思による「契約強制の原則」が導入され、終身雇用の主流化に強大な法制度担保を提供した。

 次に、出口。

 解雇については、厳格な解雇権濫用制限が敷かれた日本よりも、さらに厳格な法定解雇要件を限定し、そのうえ過酷な立証責任を使用者に課している(「労働紛争調停仲裁法」)。つまり実体と手続きの両面規制を採用している。さらに、経済補償金や賠償金の適用範囲を拡大し、解雇に対して懲罰的支払い義務を使用者に課している。これだけではない。労働仲裁の無料化や労働訴訟の低額化によって労働者の濫訴に広き門を設けた。このため、たとえ完全な合法解雇でも、結果的に労働者側の濫訴によって企業が訴訟倒れになる可能性が高くなった。これを避けるために、企業は労働者との示談による協議解除を選ばざるを得なくなり、そこで離職補償金の交渉が展開し、往々にして高額な補償金の支払いを強いられる結末となる。一方、通常の自己都合による離職では法的経済補償金が発生しないため、善悪関係の逆転が起こり、結果的に善の萎縮と悪の助長にほかならない。

 さらに、経路。

 労働者の雇用期間中の配転や昇降格といった人事権は、現行法の下でほぼすべて従業員の同意と書面変更をなくして実施しえない。

 つまり、入口では「強制入場」、出口では「退場制限」、そして経路上では「非常口なし」という「入口―経路―出口」の完全封じ込め措置によって中国労働現場の雇用制度が完全硬直化したといってよい。

 最後に、賃金。

 労働契約の変更には、従業員の同意と書面変更が必要である。従業員の同意がなければ減給できない。これは減給メカニズムの喪失を意味する。定例ベースアップという昇給が既成事実として既得利益になり、一度引き上げた賃金は聖域化し、アンタッチャブルになる。さらに、昨今法制度や政策の担保と後押しによる労働組合や従業員代表大会制度、賃金集団交渉制度の確立は、今後の賃上げに確固たる基調と流れを形成している。全般的人件費コストの上昇はさておき、何よりも減給メカニズムの喪失は、企業にとって致命傷になっている。

● 内外の硬直化による企業新陳代謝機能障害

 以上まとめると、欠格者淘汰機能の不全・停止は、外部労働市場の硬直化、計画経済化に由来し、欠格者を解雇によって外部労働市場へ排出することが困難になったことをいう。一方、社内の減給・降格人事権の喪失は、内部制度の硬直化である。この内外両面の硬直化によって企業の人員新陳代謝機能の重度障害ないし停止をきたすことは自明の理である。

 それでは、企業は何をすればよいのだろうか。

 まず、外部労働市場の計画経済化は、国家公権力や法制度・政策によって形成されたものである以上、企業としてはもはやなす術がないといっても過言ではない。逆に、無固定期間労働契約締結の回避や違法解雇など不当手段や小手先を使って抜け道を探そうとしても、法的リスクや運営リスクが増えるだけで、決して推奨に値するものではない。

 次に、考えられるのは、企業内部制度面の調整である。市場経済機能の衰弱はすなわち競争メカニズムの衰弱であって、競争が衰弱すれば新陳代謝機能障害になる。企業の新陳代謝障害によって不適合の従業員が社外の外部労働市場へ排出できずに社内に滞るようになる。その人たちが働く以上に給料や待遇を受けることは公平の原則に反する。つまり企業が必要とする人材や優秀な従業員が相対的不利益を被ることになる。特に公平問題に敏感な中国の労働現場では、決してあってはならないことだ。不公平に反感を覚える良い従業員は次第に流出したり、働かなくなったり、悪の道に走ったりするようになる。

 裏を返せば、外部労働市場では、計画経済的成分の増大とともに市場経済メカニズムが衰弱すれば、企業内部において自ら一種の市場経済メカニズムを形成しなければならない。これによって内外の均衡化を図るのである。

● 「企業内市場化経営モデル」

 私はこの数年、企業の内なる市場経済化を研究し、モデルの開発に取り組んできた。これを「企業内市場化経営モデル」と名付けて、通称「立花モデル」という。要点を以下まとめる。

(1) 内市場の基本構造を創る

 経済社会に存在する市場(以下、「外市場」という)と同じように、企業そのものを一つの市場(以下、「内市場」という)と仮想する。さらにいずれも仮想ベースだが、既存の職能別の組織ユニットについて必要に応じて役割と効用を再定義したり、調整や再構成したりし、内市場においてそれぞれ独立した経済主体としての地位を付与する。

 経済主体とは、内外市場で経済活動を行う基本的単位である。ここまで述べると、これは稲盛和夫氏の「アメーバ経営」に似ているのではないかと気付く方もいるだろうが、最後まで読んでもらえれば、本質的な相違が存在することを理解するだろう。

 「立花モデル」では、このような経済主体を「内市場企業」と名付ける。留意してほしいことがある。「企業内企業」と呼ばない理由は、実の企業内(以下、「大本営」という)に存在する仮想企業ではなく、立派な市場メカニズムをほぼ完璧に持つ内市場の中に存在する仮想企業であることから、「内市場企業」と呼ぶのである。

(2) 内市場企業の性質

 内市場企業は一般企業と同じように、生産要素を購入し、生産活動を営み、そして製品を売り、利益を計上する組織である。ただ、このような一連の活動が実在しておらず、仮想上で行われているだけであるが、費用も売上もきちんと通貨金額に換算し、財務諸表も作られる。そのうえ、重要なことに、生産性を計測する指標が設けられ、最終的利益分配も行われる。

 このような売買活動、いわゆる商取引はたとえば、「調達・仕入→工程A(初期加工)→工程B(半製品)→工程C(製品)→検品・出荷→営業・販売→(外市場の顧客)」といった流れで行わるのである。この場合は、各生産部門はそれぞれ内市場製造会社になるし、営業部門は内市場貿易商社となるわけだ。マーケティングや研究開発、人事財務部などの間接部門は、内市場の外注先として、内市場研究開発会社だったり、内市場人事管理業務代行業者だったり、直接部門機能を有する内市場企業からアウトソーシングで業務を引き受け、納品やサービス提供と引き換えに仮想サービス料をもらうのである。

 すべての内市場企業は、売上から費用を差し引いて利益を計上する。この利益を最大化すべく、生産性向上や経営合理化を常に考え、取り組まなければならない。なぜならば、理由は次に説明する。

(3) 内市場企業の納税と「政府」の役割

 各内市場企業は売上を増やし、費用を減らし、利益を出していこうと日々努力を重ねる。その経営の結果として、利益総額を計算し、その利益から差し引く「税金」を内市場の統括管理者である大本営に納めるのである。各内市場企業が納める「税金」の合計が大本営の利益になるわけだ。大本営がいくら「税金」を徴収するか、あるいは「税率」をどのくらいにするか、累進課税にするか、均等税率にするかは状況に応じて決めればよい。

 大本営は、内市場を管理する「政府」に相当する。総経理はその「政府」(大本営)の「大統領」となる。内市場では市場経済を導入し、各内市場企業の競争を促し、市場の活性化を図るのである。といっても、完全なレッセフェール(自由放任主義)ではなく、リーマン・ショックのような悪性出来事が起こらないように、市場の暴走を抑制するために、「政府」(大本営)や「大統領」は内市場全体の「マクロ・コントロール」をするのである。たとえば、「善」の定義や倫理基準、理念、戦略・方針、内市場の管理ガイドライン、就業規則制度や基本賃金制度をはじめとする内市場の「基本法」、品質基準や業務上の特殊規定などなど、すべて内市場の「政府」である大本営によって決められる。

(4) 内市場企業の利益配分メカニズムの効用

 各内市場企業は利益を計上し、その利益から「税金」を差し引いた後に残る、いわゆる「税引後利益(当期純利益)」をそれぞれの内市場企業内でメンバー(所属従業員)に配分する。この配分ルールというのは、従来、公平か不公平で企業がもっとも苦労してきた考課査定制度である。今度は、この考課査定の仕事は、「政府」にあたる大本営は一定の枠組みを示すものの、詳細の決定や運用は各内市場企業に任せることになる。

 内市場企業の「純利益」を内市場企業内部で配分する。これは従来大本営が支払う業績給や賞与に相当する。今度、この純利益の多寡と配分ルールは、一人ひとりのメンバーの利益にかかわってくるために、全員の関心度が一気に高まる。それが労働生産性に直結する。従来なら、誰かが仕事中にサボっていても、周りの従業員はどうせ自分に関係ないから無関心だったが、今度はそうはいかない。いや、それよりも、そもそもサボれなくなる。なぜならば、内市場企業の利益計上と配分メカニズムがすでに一種の、目に見えないけん制力になっているからだ。規律面では、従来の上司や会社の管理から現場従業員の集団相互管理に変わるわけだ。

(5) 内市場企業の「解雇」と「社内失業」メカニズムの効用

 それだけではない。内市場企業はより多くの利益を出すために頑張るのが当然で、さらにその一人ひとりの取り分を増やすために、なるべく人数が少ない方が良い。人数が少なければ少ないほど一人あたりの分配額が増えるからだ。つまり一人当たりの生産性にメンバーの注意が払われることだ。そこで、労働生産性の低いメンバーを排除し、なるべく有能なメンバーを増やそうとする。

 たとえば、10人のメンバーがいる内市場企業で、その中の1人がどうも努力をあまりせず、他のメンバーの足を引っ張るような存在になっている。すると、大多数のメンバーの意思で、そのダメメンバーをその内市場企業から解雇することも可能だ。外市場では法規制でなかなか解雇が容易ではないが、内市場なら簡単に「解雇」することができる。ある内市場企業から解雇されたメンバーは、大本営の「社内失業」状態に陥る。大本営に在籍するだけで薄い基本生活保障給をもらえても、内市場企業からは配分をもらえなくなり、収入が一気に減ってしまう。

 「社内失業」者は、内市場をさまよい、「就職活動」をし、「採用」してくれる次の内市場企業を探さなければならない。そのとき、「政府」としての大本営は、職業研修を提供したり、あるいは「内市場ハローワーク」として「就職あっせん」をしてあげたり、必要に応じて「社内失業手当」を一定の期間に支給したりして、温情溢れる救済機能を果たすのだ。本人に努力する意思があれば、冷酷に切り捨てはしない。「敗者復活」のチャンスを与えるのである。

(6) 内市場経済体制の構築

 ここまで読めば、賢明な読者の皆様もすでに洞察されたことだろう――。「企業内市場化経営モデル」すなわち「立花モデル」というのは、つまり一企業内において競争メカニズムをコアとする市場経済体制を創り出す経営モデルなのだ。

 外市場では市場経済が死んでも、内市場で市場経済のメカニズムを作り上げれば、バランスを崩さずに企業経営・人事管理の健全性を確保することができるのだ。ただ、これは大変煩雑な作業である。なぜならば、企業の経営それ自体が計画性に基づくものであるが故に、多くの企業内部では現在、計画経済的な運営が行われているからだ。

 つまるところ、一企業はどのようにして、企業内の計画経済体制から市場経済体制に切り替えていくかが課題である。私が提案している「立花モデル」は、企業の制度改革として間違いなく大手術である。時間や費用、労力がかかる上で、苦悩や苦痛も伴う。私自身もはたしてこのモデルが最善なのか、もう少し楽な選択肢はないものかと何年も苦慮しながら、模索してきた。限られた私の知恵と努力だが、最終的にこの結論にたどり着いた――。

 今日の中国労働法制度・政策、労働市場の現状および将来への予測に目線を据え、選好に供する選択肢さえもほかに存在しない。

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