衰退のメカニズム、過剰コンプライアンスとポリコレの暴走

 過剰コンプライアンスとは何か。こんな記事が見つかった――。『日本の企業と社会を破滅させる「過剰コンプライアンス」のヤバイ正体』

● 絶対に失敗しない唯一の方法

 絶対に失敗しない唯一の方法は、何もしないことである。チャレンジしなければ失敗しない。減点方式が主流の日本企業においては、「何もしない人間」が出世しやすい。その隠れ蓑として「私はコンプライアンスを徹底しました」という言い訳ほど都合が良いものはない。コンプライアンスの徹底とは、「杓子定規なルールに基づいて行われる独裁」に他ならない。(上記コラムから引用)

 コンプライアンスの本来の目的は、法令や倫理規範に従い、公正な経営を行うことである。しかし、現実にはそれが過剰に強調され、企業活動の萎縮を招く場面が多い。特に、「リスクを取らないことが正義」という風潮が広がると、責任回避の手段としてコンプライアンスが利用される。「規則に従った結果です」と言えば、誰も責任を問えない。こうして、企業は本来の目的である成長や革新ではなく、「ルールを守ること」そのものが最優先事項となる。

● 「正論」という凶悪犯

 何もしないために、「コンプライアンス」という「正論」を担ぎ出す。コンプライアンスの徹底を叫べば、新しい挑戦を阻止できる。「それはルール違反になる可能性がある」と言えば、それ以上の議論は不要となる。ルールを守ることが正義とされる社会では、この言い分に反論するのは極めて難しい。

 しかし、「正論」を利用するのは何もしないためだけではない。何かをするためにも「正論」はしばしば持ち出される。ここで登場するのが「ポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)」である。

● 「ポリコレ」の武器化—何かをするための手段

 「コンプライアンス」が「何もしないための正論」ならば、「ポリコレ」は「何かをするための正論」である。ポリコレの名のもとに、特定の価値観を押し付け、異論を封じることが可能になる。例えば、企業がある施策を進めたいとき、それをポリコレ的な正義として主張すれば、誰も反論できなくなる。

 多様性の推進、ジェンダー平等、環境配慮――これらはすべて重要なテーマである。しかし、これらの議論が「反対する者は悪」という構図に変わると、健全な意見交換は不可能になる。ポリコレが強権的に運用されると、それは「独裁」に転じる。コンプライアンスとポリコレは、表向きは異なる概念であるが、どちらも「正論」という盾を利用して組織の意思決定を支配する点で共通している。

● 障がい者を雇ってはいけない理由

 米首都ワシントンで2025年1月29日夜に発生した、アメリカン航空機と米軍ヘリの空中衝突事故を受け、トランプ大統領は記者会見で、連邦航空局のいわゆる「多様性への取り組み」を厳しく批判した。聴覚・視覚障害、四肢欠損、部分麻痺、完全麻痺、てんかん、重度の知的障害、精神障害などを持つ者が採用対象となれば、航空機運行の安全性に影響を及ぼしかねないと指摘した。

 記者から「この事故と多様性政策にどのような関連性があるのか」と問われると、トランプ大統領は「常識だ」と一喝した。多数の乗客の命がかかる航空運行の安全という公衆の利益を考えれば、優秀な健常者を厳選して雇用するのが常識であると主張。障害者個々の権利を持ち出す場面ではないことは、自明の理である。

●「正論独裁」の危険性

 コンプライアンスとポリコレが「正論独裁」として機能すると、組織や社会は硬直化し、イノベーションが阻害され、公衆利益が損なわれる。過剰コンプライアンスの話に戻るが、意思決定が慎重になるのは良いことだが、慎重すぎて何もできなくなれば、本末転倒である。ルールは手段であり、目的ではない。ポリコレもまた、社会を良くするための道具であるはずだ。しかし、それが「疑問を持つことさえ許されない絶対的な価値観」に変わった瞬間、自由な議論と挑戦の文化は失われる。

 コンプライアンスとポリコレは、適切に運用される限り、有用な概念である。しかし、これらが「絶対的な正義」として運用されると、異論を許さない独裁的なツールへと変貌する。企業や社会が成長し続けるためには、ルールを守ることと、新しいことに挑戦することのバランスを取る必要がある。

 「正論」という武器を振りかざすのではなく、「健全な議論ができる環境」を守ることこそ、真にコンプライアンスとポリコレを活かす道である。

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