満ち足りた命の終わり方――原点から幸福へと至る旅

<前回>

4月28日(月)
 ハナが奇跡的に少し飲み食いができるようになった。命の火はまだ、わずかに、確かに灯っている。すぐに鍼灸へ連れて行き、中医学の治療に徹すれば、もう少しだけ、このかけがえのない時間を共に過ごすことができるかもしれない。神様に、今日という奇跡に、心から感謝する。

4月29日(火)
 状況は再び悪化した。ハナはもう、水も食事も受け付けなくなった。

4月30日(水)
 朝、一昼夜を絶食で過ごしたハナは、突如として散歩に出た。驚くほど長い距離を、黙々と歩いた。そして帰宅後、力尽きたように床に倒れ込んだ。その姿に、私ははっとした。もしかすると、命の終点が近づくなかで、彼女は原点へと還ろうとしていたのではないか。

<写真>2014年4月21日、野良時代のハナ(茶)とマル(黒)の姉妹。彼女たちはこの頃、毎日のように我が家の前に姿を現し、用意された食事を仲良く食べていた。

 飢え、孤独、警戒、そして、いじめられることも、たくさんあった。野良として生きたあの過酷な日々。その記憶を自ら甦らせることで、我が家で過ごした11年間の安らぎと甘美な時間を、より強く、深く、最後にもう一度、味わおうとしていたのではないか。

 午前、妻が絶食したハナを点滴に連れていった。しかし病院に着いたハナは、妻にしがみついて離れようとしなかった。もしかするとハナは、意図的に絶食し、6時間もかかる独りぼっちの点滴を拒否しようとしていたのではないか。

 もう十分に生きた、満ち足りたと感じて、生涯を閉じる準備をしているのではないか。そして、ただただ、残された時間を、家族と一緒に、一分一秒たりとも離れずに過ごしたいのではないか。私たちは、ハナのその意思を尊重したいと思った。今日の点滴を、最後にしようと決めた。

 そういえば、長男のゴン太も、同じがんで最期を迎えたとき、やはり同じように絶食した。亡くなったあとでさえ、一切の排泄物の垂れ流しはなかった。ハナもまた、そうだった。

 彼らはもしかしたら、「生き様」と同じように、「去り様」にも美しさを求めていたのかもしれない。命の終わりを穏やかに、自ら整え、誰にも迷惑をかけず、静かに幕を閉じる。それは、人間よりもずっと理性的で、そして、美しい。

 苦しみの記憶をあえて呼び起こし、その対照としての幸福を、魂に刻み込むかのように、そう、ハナは、自分の命を、幸福に浸かっていたのだと、私は気づいた。

<次回>